葛西紀彦

普通夢なんてものは起きて十秒も覚えていないもの(少なくとも俺はそうだ)だけど、その朝のいやーな汗にまみれた夢ははっきりと覚えている。第四層を上から見下ろしていた。葵らしき真っ青のツナギをつけた誰かが誰かを抱き起こし、覆い被さる青柳さんの黒…

 14:35

会話をしたことはなかったが面識はあった。先月の半ば頃、探索者の救助にすこし協力した際にその場にいたからだ。その翌日にも妻と食事をしているときに女帝真城雪(ましろ ゆき)にくっついて挨拶にきたはずだ。理事の娘で――名前は、翠。そう。笠置町翠(か…

 23:29

「あ、啓一なんかかっこいいこと言ってるぞ」 「うわ、映った」 「つか真壁くん、なんか2ちゃんで知られてるぞ」 「え? マジすか?」 「・・・なに? ここの日記書いてんの? しかも実名?」 「ゲ」 「なに? 俺も出てんの? 啓一」 「えーと、書いてます…

 23:27

真壁啓一(まかべ けいいち)が怪訝そうに声を上げた。 「あれ? 真城さんのヒョウ柄って地下用ですよね? カラビナついてるし」 両手をあけながら大量の食料や救急用品などを持ち歩かなければならない地下行動時に使用するツナギには、円形のカラビナと呼ば…

 22:45

うわあ! と進藤典範(しんどう のりひろ)は声を上げた。木賃宿の二階、いわゆる『男モルグ』と呼ばれているフロアに置かれているテレビの前を見てのことだ。普段は二〜三人が座っているだけのソファにはぎっしりと男女あわせて六人がならび、その足元にも…

俺には腕力も体力もないけど、反射神経とスピードはあるつもりだった。だから、そう、きっと五キロはあるツナギのせいなのだろう。鈴木秀美(すずき ひでみ)さんに駆けっこでまったく追いつけなかったのは。 今日から二日まで詰め所で示威部隊に加わる。今…

 12:32

腹減った腹減ったと唱和しつつ示威部隊が地上に戻った。留守番役の太田憲(おおた けん)、落合香奈(おちあい かな)がお疲れ様と出迎え、ビニール袋の中から折り詰め弁当を取り出した。そして大きなお鍋。これは落合が北酒場のコックに頼んで作ってもらっ…

今年も残すところあと三日。日記をつけ始めたのが11月1日だったから、もう二ヶ月も続いたことになる。最初の頃にあった「明日死ぬかもしれない」という切迫感はいまはもうない。別に死なないと思っているのでもなく、死んだら死んだで仕方のないことだと受け…

『ノーモアクリスマス!』 パレードは首謀者の真城さんが突然「いやホントごめん! マジで! あとよろしく!」と言いながら裏切ったものの、参加人数24人と犬3匹という立派な成果をあげた。馬鹿ばっかりだ、この街。先頭は真城さんに選んでもらった高級服に…

 12:31

ドアを乱暴に開け、全員そろってる? と叫んだ。鍛え上げられた動体視力は返事よりも前にすべての人間の顔を勘定し、床に積み上げられたロープと金具も確認していた。葵ちゃんは? と笠置町翠(かさぎまち みどり)に双子の妹の所在を確認した。デートです、…

 13:56

かぶとの類を身につけている相手には決して大上段で切りかかってはいけない。かぶとは衝撃を受けとめるためではなく流すために作られている防具であり、振りおろした剣が逸らされたら一秒は無防備になってしまうから。訓練場の橋本辰(はしもと たつ)に何度…

打撃力★★★☆☆ 防御力★★★★★ 動作速度★★★☆☆ 入力への反射速度★★☆☆☆ 体力★★★☆☆ 気力★★★★★ 投げ技 なし ゾンビ属性 HPがゼロになった瞬間、78%の確率で1だけ残り2%の確率で25%回復する 不屈 星野を含む威嚇を無効化する 衣装 ツナギ(群青)

隣りに座ってきた男に向けて、屈託のない笑顔がすんなり出てくる自分に葛西紀彦(かさい のりひこ)は驚いていた。別に嫌っていたというわけではない。もともとそれほど近しくする関係でもなくなんとなしのよそよそしさがあっただけだ。自分自身に対して社交…

光の中に突然うかびあがったひょっとこのお面にぎょっとした。凝視する中で白い手がそのお面をはずすと理事の娘で自分が下した女剣士の笑顔があった。そうか、この娘との勝負も大変だったと黒田聡(くろだ さとし)はしみじみと思う。手にしたお面をつけて登…

うわ、ヒゲ。開けた視界に映っていた星野幸樹(ほしの こうき)の顔を見て葛西紀彦(かさい のりひこ)がまず呟いたのはその一言だった。星野をはじめ周囲を取り囲んで心配していた視線たちがほっとしたように和んだ。 負けましたねー、とからっと笑って葛西…

勝利の昂揚は一秒も続かなかった。もちろん鋼の自制心があるからではない。歴戦であればこそ、お互い武器を持たない状態で寝転がった相手の上にまたがっている自分の有利はよくわかっていた。あとは参ったするまで殴るだけ。いや、物わかりがよければ上に乗…

擬態か? 葛西紀彦(かさい のりひこ)の心にまず浮かんだのはその可能性だった。最初のダッシュに対しての反応、キャプテン翼にも出られそうな破壊力のキック、袈裟懸けを余裕を持って受け止めた技量と見かけからは全く信じられない(津差より上なんじゃな…

黒田聡(くろだ さとし)は軽い吐き気を感じていた。何かおかしい。今日になっての連戦でかつてないほど鋭敏に研ぎ澄まされた感覚が教えてくれたかすかな違和感、床を転がり完全に無防備だった敵手に対する追撃をやめさせたのはそれだった。このまま突っ込む…

開始の声を耳の後ろのほうで聞いた気がした。それだけのスタートだった。視界の真中で普段どおり余裕のあった顔がこわばる。地下では比較にならず地上においても実力が上の相手だ。いくらいいダッシュを切れたところで勝利はまだ見えないところにある。それ…

『俺より前に後衛の死者は出さない!』 なんだ? このアナウンスは。 突然響き渡った拡声器の音をさすがにいぶかしみ葛西紀彦(かさい のりひこ)は顔を上げた。すぐ脇にしつらえられている放送席でマイクを握り締めた美女がこちらを横目で見ていた。ぽかん…

「ああもう! とんでもねえな黒田さんは!」 段差に腰掛け膝に額をつけていた男が突然叫んだ言葉はそれだった。鯉沼今日子(こいぬま きょうこ)はびっくりして葛西紀彦(かさい のりひこ)を見やる。近くにいた人間が多かれ少なかれ驚いた顔をしている中、…

準決勝を前にしても身を包む空気には変化が見られない。ゆったりとしたそれは黒田聡(くろだ さとし)が後衛から好かれる大きな要因ではあったけれど、それでもその空気のまま訪れられた面々はうろたえたようだった。同じく準決勝を目前にして、客席の段差に…

折った。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は確信した。 自分の鼻も折れているかもしれないが、と止まる気配も見せない鼻血を思い切り噴き出しながら懸命に笑いを押し殺す。逆流してきた血が口の中にたまり、それを床に吐き出した。その大量の出血に観客が…

この着想をどこから仕入れやがった? 葛西紀彦(かさい のりひこ)は振り下ろされる木剣を受け止めた。右手一本で振り下ろされた木剣はそれでも大変な威力を伝えてきて、受け止めるには片腕で柄、そして切っ先を肩や二の腕に当てなければならないほどだった…

迷宮街唯一の飲食施設は街の北側に位置することから『北酒場』と呼ばれている。いつからその名前が付けられたのか誰も覚えていない。髪の長い女が似合うかどうかも議論が分かれている(いま一番その店に似合う女は大柄でショートカットの美女だったからだ)…

「こりゃ離婚だな、鯉沼くん。まさか鴨川会長を知らない嫁だなんて」 野村悠樹(のむら ゆうき)の言葉にまったくだと葛西紀彦(かさい のりひこ)がうなずく。いやいや、と鯉沼昭夫(こいぬま あきお)は慈愛のこもった目で妻を見つめた。知らなかったのは…

とことこ歩調を乱したものはもはや怒号とも呼べるサイズの音の塊であり、そして爆発的な大歓声だった。何事だよ、と鯉沼今日子(こいぬま きょうこ)は小走りに進む。ベスト8決定戦からは統一された会場、最前列から二段目に自分の席は確保されていた。そこ…

息子の部屋にあるどんな格闘漫画でもサウスポー相手は苦しむものだったが、訓練場でしばしば打ち合っていた葛西紀彦(かさい のりひこ)にはそのハンディはないようだった。裂帛の気合を篭めた切込みが矢継ぎ早に繰り出され、どちらかといえば押されているの…

静止した状態から2m弱の跳躍、そして屹立。全身に気をみなぎらせてこちらを見つめてくる葛西紀彦(かさい のりひこ)の視線に対し、お前は真城雪(ましろ ゆき)か何かか? と胸の内で毒づいた。そして慌てて平常心を自分に言い聞かせる。野村悠樹(のむら …

おおっ! と部隊のリーダーである星野幸樹(ほしの こうき)の驚きの声が聞こえてきた。午後の大会も始まり、ベスト8を決めるここからは一つの会場だけを使用して試合を行う。自衛隊/探索者合同作業は慣れたもののこの街だったがそれでも記録的な効率で土…