メールでこの祭りの事を知り、夕べは一睡もせずにプレゼン資料を作った。それは本当は、今日一日かけて作ろうと思っていたものだ。なんとか完成し、頼み込んで1時間早くに出社してくれたアシスタントに業務指示を出してから、新幹線社内では他の案件への下調べに没頭した。過去の製品の説明書部品をデータベース化することで新しい製品の説明書の雛型を簡単に作れるその新機能、担当者の反応にはそれなりの手ごたえを感じている。3月が下期予算の〆であり、担当者はそのシステムを発注したいものの社内予算が獲りにくい時期になりつつあった。どれだけの予算を分捕れるかは、自分が担当者に提供する資料で決まる。これまでは担当者に対して製品を売り込む関係だったものが、これからは担当者とともに予算を勝ち取る関係になる。このフェーズが国村光(くにむら ひかる)にとっては大好物だった。ここで担当者に苦労させればさせるだけ実際のシステム運用時の問題解決に協力的になってくれる。難産の子ほど可愛いというのはコンピュータシステムでも当てはまることだ。
泥縄のようにいま下調べをしているのは予想外の仕事だったからだ。自分の中では全てのシステムを自社で作成しようと思って見積もりを出し、来期の受注を目指していた。だが、他の営業の不手際のしわ寄せの結果その会社との金の流れを断ちたくない上層部から値段を下げてでも今期中に受注すべしと指示が入ったのだった。それで急遽中心となるネイティブXMLデータベースの中心部品だけはフリーウェアを使用する方針になったのだ。こんな下調べはSEにやらせればいいのにと思わないのでもないが、営業の視点からすれば甘いコスト意識の彼らには結局大事な仕事は任せられない。ともあれ昨夜から睡眠時間はゼロだった。試合と試合の合間も寝るつもりはなかった。しかし身体は無理をわかっていたらしい。気が付いたら眠ってしまっていた。
準決勝までは怖い相手とあたることはなさそうだった。だったら準決勝の前に10分ほど眠れればいいだろう。そう考えて海外の技術情報サイトを見始めた、つもりだった。しかし寝転がってディスプレイを読もうと思ったあたりでもう正気ではなかったのだろう。痛恨の熟睡の結果、時間があればツナギに着替えるつもりだったが果たせずに相変わらずのスーツのまま試合場の一角に姿をあらわす羽目になってしまった。
ベスト8決定戦から一つに絞られたらしく雛壇状に積まれた土嚢の上に観客が並んでいる。もともと週末しかこの街に来ない自分にとって親しい知り合いは多くないが、それでも探していると第二期の探索者の顔が見えた。彼は熱意をもって自分に教えを請うている。師としてちょっと下手なところはみせられないな、と思いながらさらに視線を泳がせた。
あ、やばい。
動揺をまったく表さずに視線はゆっくりと観客席を舐めていく。しかし背中には汗がにじみ出ていた。心臓が強く打つ。
やばいぞ、あの相手。ええと、狩野だったか?
一瞬だけ見たその表情は、おそらく自分のスーツ姿に憤って強烈な怒りを瞳に湛えていた。篭手の上からでもわかるほど強く木剣を握り締めながらもその腕、肩には震えが見られない。強い意思を胸に宿し、それでいて身体は最高の動きを実現できるようにリラックスしている。彼のことを「第一線級の戦士だ」と黒田聡(くろだ さとし)は評した。そのときは笑って聞き流したその言葉だったが、いざ目の前で見せられると手に汗がにじむ。
あー、どうしよう。普通にやって負けるとは思わないけど、ツナギ着てなきゃきっと骨とか折れる。いや当たりどころ悪けりゃ俺死ぬぞおい。ていうかあいつ怒り狂って俺のこと殺してもいいやという気分でいないか? きっとそうだぞ。うわー、ちょっといやな流れになってきたぞ。
アナウンスが自分の名前を読み上げて、反射的に笑顔で手を挙げた。この期に及んでスーツ姿の自分に場内は大興奮だった。しかも俺、ヘルメットもつけてないだろう。これってもう自殺と言ってもいいものだろうな。どうするか。謝っちゃうか? 謝ってツナギとヘルメットつけるか?
しかし、と思い直す。そもそもこんな段階で相手の打撃を受ける余裕は自分にはないのだった。徹夜あけの自分が優勝するには少なくとも準決勝までは体力を温存して進まないといけない。それで全霊をふりしぼって二試合、それが限度だった。優勝できないのならわざわざ会社をサボって来た甲斐がない。全ての行動原理に優勝を置いたらするべきことはあっけなくわかった。
口元に笑顔を浮かべて、真壁という教え子に手を振ってやった。視界の端っこで対戦相手の周りの空気がかげろうのように揺れたような気がした。いまの最善の方法は、あおってあおって一撃で息の根を止めることだ。わざとあくびをする。
さて、勝てるならいいけどもしもあいつの力が俺の予想をほんのちょっとでも越えていたら、俺はどうなってしまうのだろうか。瞬時に脳裏に描いた自分の敗北風景は複数あったが、驚いたことに自分は全て白目をむいていた。瞳孔まで開ききっている気がする。あー、俺死ぬのかな。泣きたい思いを必死にこらえながら、態度だけはふてぶてしく伸びをした。