背が高い人のことをあまり羨ましがったことはなかった。三峰えりか(みつみね えりか)は身長144cmであり女性の平均身長ですら160cmに達しようという現代で、その意識は奇異と人には思われるだろうがそれが実感なのだから仕方がない。成長が止まった中学生からは歩いていける距離にある中高一貫の女子高だったし、そもそも地方都市の生まれだった。大学で東京にやってきたものの親類が所有しているマンションの一室に住みそこから大学には歩いていけた。つまり三峰には背の高い人間と押し合いへしあいするという経験がなかったのだ。そういう経験がなければことさら身長を意識したりはしない。母も背が低かったために台所には脚立は当然あるものなのだと思っている。
でも、と人の群れの中、男性の名前を叫びながら歩きながらようやく背が低いことのデメリットを感じはじめていた。人の動きを読むことに慣れない自分だから行き交う人々とぶつかってしまうのは仕方がない。それは謝ればいい。でもぶつかる場所が相手の肘だったりするとそれはちょっと言葉を失うほど痛いのだった。そのうえこっちが謝らなければならない。なんで自分がこんな目に。半泣きになりながら名前を叫ぶ。
「国村さーん! 国村光さーん! 試合が始まりまーす! 国村さーん!」
うわ! 人の流れが開けたと思ったらスーツ姿の男性が寝転がっていた。顔にはキングファイルをかぶせている。この会場でスーツ姿、そして人込みの真中で寝ているその精神力に少し驚いたがそんなことはかまっていられない。ひょいと(スカートだったが)またぎ超えて再び名前を叫んだ。
「え、えーと、三峰さん?」
名前を呼びかける言葉にさては? と喜んで振り返るとそこにはツナギに身を包んだ探索者が立っていた。死体の売買以外で会話をしたことのないその顔はしかしはっきりした一つのイメージとともに三峰の心に焼き付けられている。そのためにちょっと身をひいたがその男――黒田聡(くろだ さとし)という――は気にしていないように国村さんを探しているの? とおそるおそる訊いた。
そうです、とうなずいて情報を期待する視線を送る。男の顔はさらに困惑が深まったようだった。なんだか怖い人じゃないのかな? と三峰は緊急時とはいえ意外に思う。彼女が聞いていたこの男のイメージとは、色魔。自分の同期にあたる技術者たちの二人が毒牙にかかりそれを憤った男が(探索者の戦士が喧嘩がご法度であるにもかかわらず)顔を二倍くらいの大きさに腫れさせられた。その話を聞いてからは常識の通じない人間だと思っていたが。だから探索者たちと、とりわけ女たちと友情を感じさせる会話をしている姿を意外に思いつつも敬遠してきたのだった。それがいまここにいる。できれば避けて通りたいが、しかしこの男は国村光の居場所について情報をもっているようにも見える。逡巡はしかし一瞬で破られた。黒田が下を指差したからだ。
「――これ、国村さん」
え? と見下ろしたそれは確かにスーツ姿だった。国村はこれまで二度の試合を経ているはずだった。当然ツナギを着ていると思っていた。しかしそこに、ビジネスバッグを枕にして顔のうえにキングファイルを広げ、胸の上にノートパソコンを置いて寝ているのはどこから見てもサラリーマンだった。それも、平日の美術館でよく見かけるサボリ中の。
国村さーん、と声をかけながら黒田が肩をさする。う、う、うあ、と返事があってバサとファイルが落ちた。それまで顔にくっついていたそこの個所にはよだれのあとがくっきりついている。あ、仲間だと嬉しく思った。
「国村さん、試合みたいですよ」
ぱっちりと目を開いたその顔はなるほど戦士らしい引き締まったものだったが目の下のクマと青々とした無精ひげ、だらしなく緩められたネクタイがその容貌を台無しにしている。サラリーマンはサラリーマンでも、テレビの中JR新橋駅前でよく見かける顔だった。
その眼球が二人を捕らえたようだった。そしてすっくと立ち上がった。三峰はその動作に違和感を感じる。何がおかしいのかわからないけど、何かおかしい。国村は一つ伸びをすると、両腕をだらりと垂らし膝を軽く曲げて、一度だけ身体をゆすった。そして黒田に次の相手は、と尋ねた。代わりに三峰が応える。狩野謙(かのう けん)さんです。
「狩野? 誰?」
黒田は苦笑した。さすがは幽霊探索者ですね。狩野さんは確かこんどのゴンドラ警備から正式に星野さんのところに加わる第一線の戦士ですよ。説明に国村は笑顔を返し、じゃあ行こうかと歩き出した。黒田が慌てて後を追う。
「ちょ、ちょっと国村さん。アップとかしないんですか? スーツは着替えないんですか?」
そんな、相手がお前だってんならともかく大げさな。無精ひげの口元が歪んだ。