迷宮街唯一の飲食施設は街の北側に位置することから『北酒場』と呼ばれている。いつからその名前が付けられたのか誰も覚えていない。髪の長い女が似合うかどうかも議論が分かれている(いま一番その店に似合う女は大柄でショートカットの美女だったからだ)。宿泊施設はそれぞれ『木賃宿』、『宮殿』と呼ばれていたが由のないことではない。木賃宿は一階部分がそのとおりむかしの木賃宿を思わせる雑魚寝のスペースになっているからだ。またこの建物は『モルグ』と呼ばれることもある。2〜3階は二段ベッドを並べたスペースで、それが死体安置所を見立ててのことだった。建物自体、迷宮街ではモルグとも木賃宿ともどちらで呼ばれても通用するが、「木賃宿に泊まる」とはこの建物の1〜6階全てに止まることを意味したが「モルグに泊まる」という言葉は2〜3階のいずれかに泊まることだけを意味した。安宿が木賃宿なら高い宿は『本陣』と呼ぶのが妥当のような気がしないでもないが、まあ木賃宿に比べてはイメージをかきたてないのかもしれない。
このようにいろいろな通称がある街で、二つ不思議に思われていることがあった。一つは探索者の武器防具の受け渡し、簡単な生活用品を取り扱う道具屋にひねった通称がなくそのまま道具屋と呼ばれていること(正式名称は探索用物品販売所である)、そしてこの訓練場に名前がついていないところだった。キュ、キュ、と高い音を立ててブーツとこすれあう床板も、壁に並んでもうけられている外部との通用口も、それら全てが想起させる懐かしい感覚はまさに体育館。ここで運動するたびに、どうしてこの建物を誰も体育館と呼ばないのか葛西紀彦(かさい のりひこ)は不思議に思っている。ここまであからさまに体育館のようでありながら誰もそう呼ばない。もしかしたら自分も知らない不文律があって呼ぶことを許されていないのではと少し不気味に思い使用を控えながらも、みんなそんな遠慮をなんとなく感じて口に出さないのかなという気もする。ともあれ『訓練場』で何一つ不自由はないのだが。
葛西の顔は前後左右に移動していた。しかし上下動がほとんど見られないために、何か移動する台座に乗っているのではないかと見るものに思わせる。しかしあくまでその移動は自分の足腰で行い、中腰にした膝と腰が上下動を上半身に伝えないように完璧に吸収していた。それは強靭な足腰だけでは不可能で、この動作を目標にして訓練を重ねなければ到底実現できない芸当だった。しかし二人の見物人はそれに気づかず鯉沼今日子(こいぬま きょうこ)はふわとあくびをした。
「もう10分動きつづけてるよ、葛西さん。そんなに黒田さん相手は心配?」
視線だけを友人に送って口元に笑顔を浮かべる。彼の次の対戦相手は津差龍一郎(つさ りゅういちろう)という巨人であり、黒田聡(くろだ さとし)と対戦するのはその試合に勝ってからだ。つまりこの女は自分の勝ちを確信していた。やっぱり下馬評では自分か、と焦るでもなく再確認した。そう。探索者でもずばぬけた体格を誇り第二期戦士の中でも総合力では屈指の相手とはいえ、これまでの修羅場の量では自分とは比べ物にならない。こと第一期の最精鋭同士の戦闘であればともかくよもや津差に遅れをとることはあるまいと、前の試合で寺島薫(てらしま かおる)が不幸なハプニングで姿を消したことで葛西は非常に有利になったとそれが大多数の一致した意見だった。
実際に実力で負けるとは思わない。もちろんその膂力は大変なものがあったし動きも巨体を思わせないくらいに速い。しかし経験が足りなかった。どこを守ればいいか一瞬迷い、その一瞬を取り戻すためにさらに考える悪循環が見て取れた。たぶん来月にはいい勝負になるだろう。なんといっても第四層で戦闘をし始めたのだから。しかし今はまだ自分の方が上だった。それはわかる。けれど。
小笠原幹夫(おがさわら みきお)と寺島薫という二人の戦士を幸運に助けられたにせよ打ち破ってきていることも事実だった。そしてそれがこの上なく不気味に感じられる。小笠原はその後の寺島、葛西(もしくは野村)、黒田(もしくは笠置町)、真城(もしくは国村)といううんざりするようなトーナメント表を勝ち抜くために体力をなるべくけちり、消耗戦に持ち込まれそうになって焦ったところをまぐれ当たりの一撃で敗れた。寺島の敗因はもう言いがかりとしかいいようのない、かわしたはずの剣先がツナギにひっかかったというものだ。そこにあるのは何か大きなものの作為にすら感じられる。津差は勝つべきだという大前提が世の中に植え付けられているような。
「あれは一体なんだろうな」
足を止め、友人である鯉沼昭夫(こいぬま あきお)を見下ろして問い掛けた。もちろん彼は不得要領を表情で示す。
「津差さんだよ。小笠原さんも寺島さんも、津差さんとやりあったら5本のうち4本は取れる人たちだ。それが、小笠原さんは状況が悪く寺島さんは運が悪く負けた。津差さんにはそういう“勝って当たり前”的なオーラがあると思わないか?」
それは明らかに対戦前の感傷がもたらす弱音と響いたはずだ。予想に反して鯉沼は笑い飛ばすことをしなかった。
サラブレッドってあるよな」 鯉沼が伝えたかったのはこの街だけで通用する意味の方だ。競走馬ではなく、『人類の剣』とよばれる特別な存在の血縁で、幼少から超常の力を身につけるように厳しい訓練を課されてそれに耐えてきたものたちのことだ。既に確認されているだけでも5人のサラブレッドが第二期から参加していた。彼らは往々にして能力が高く、血筋のためかポテンシャルも自分たちよりも上に思える。彼らが秀でているものは生と死を分かつ判定に直接作用するものであるがために、探索者たちは賞賛と羨望をこめて彼らをサラブレッドと呼んでいた。
「たしかに笠置町さんたちも久米さんもすごいと俺は思う。けれど、冷静に考えるとそれほどすごいか? と思うこともある。だって彼らはあの化け物めいた人たちに生まれてすぐに鍛えられているわけで、生まれてからずっと修行しているわけだ。だったら俺たちより強いのは当然だろう。なのに、少なくとも、俺は笠置町さんには同じ戦士としてそれほどの恐れは抱かない」
「本当に恐ろしいのは――貴晴みたいな」
鯉沼が挙げたのは精鋭四部隊の一つを率いる湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)のものだった。これには同じく治療術師であるその妻もうなずきそして続けた。魔女姫みたいな、三原さんみたいな、山之内さんみたいな、弓子みたいな、尾崎みたいな、国村さんみたいな、伊藤さんみたいな、真壁みたいな、そして一拍置く。
「津差さんみたいな」
そう、と葛西はうなずく。俺たちと条件は大差ないのにその才能も成長速度も常軌を逸している人間こそが自分たちが意識すべき生き物なのだと思えた。彼らは自分たちと何が違うのか? 学べるところはあるのか? 俺たちもそうなる可能性は?
「ない、というのが私の結論」
あっさりと口をはさんだ女を、その友人も夫も呆気に取られて見つめた。ムリだってば、弓子になろうとしたって、と最精鋭の一人であり、数日前に全ての治療術をマスターした娘は笑った。弓子は――思い出す表情には痛み。その名前をもつ娘はいまはもうこの地上にはいなかった――やっぱり別物だったよ。同じ治療術師として見てね。だってあたしの半分の時間で追い抜いていったんだから。きっと、と少し言葉を選ぶ。
「弓子とか湯浅さんとか津差さんは、ドラクエファイナルファンタジーの登場人物なんだよ。あたしたちはウィザ――おっと、ウルティマオンラインのキャラクタだと思おう。世界を救うとかはとりあえず肩に乗せないで、できることをしよう。できることをするだけの物しか与えられていないんだからさ」
で、とりあえずチミのできることの中には、あのでっかいのを倒してあたしたちにペアチケットをプレゼントするというのがあると思うがどうだね? ひょうげた物言いに葛西は何か気が楽になったように笑った。おかしなことに、隣りに座っている夫も同じような表情で笑った。男って――と今日子はひとつ新発見をした気分になる――自分が主役じゃないといやなのかな? 二人ともそんな柄じゃないのに。顔からして。
あげるのはどうだろうな。とりあえず2枚で3万円からだな。葛西は床の木剣を取りあげた。目の前の空間に向けて右袈裟、左袈裟と交互に振り下ろす。見ている後衛二人が気づかないうちに、当初は右腕だったそれが左腕に持ち変えられていた。左右の斬撃には一秒だって遅滞は見られなかったのに。
剣先がぴたりと空中に止まった。その表情にはもう迷いは見られなかった。