これだったんだ。あまりの苦しさに涙をにじませながら縁川かんな(よりかわ かんな)は思った。先ほどから一回の攻防が終わるたびにあたりから起こる咳き込む音、なんだろうと思っていたが自分がそうなってようやくわかった。
今回は男性の方から攻めた。右上からの振り下ろし、それが止められるや身体ごと回転して左から胴をないだ。回転する際に伸ばした左腕が翠さんの注意を一瞬だけ奪い、体重と遠心力がこもった木剣を受け止めたものの、軽いその身体はふわりと浮き上がってしまった。しかし追い討ちをかけようとする男性にカウンターで合わせるように右の上段蹴り。会場全てを震わせた音は蹴りをブロックした腕の衝撃ではなく、全身でこらえるために男性が踏みしめた右脚の音だった。すごいなあ、と感動で視界がうるむ。自分と大差ない体格の蹴りなのに、180cmを越えようという男性があんな踏ん張りをしないと耐えられないなんて。
脚をすらりと伸ばしそれをしっかりと受け止めた二人の視線があって、翠さんはゆっくりと右脚をそのまま宙に差し上げ、静止した。足の裏が完全に天を向いているその姿勢はまるでサーカスか雑技団のようだった。そして脚を下ろした。男性の目の前に。男性は木剣を脇に挟んでおり、両手のひら上向きにして腰の高さで組んでいた。
翠さんの右足がそこに乗せられる。
はっ! という二人の気合は同時。組んだ両手を思い切り跳ね上げる男性、その限界点で組んだ手から跳び上がった翠さん。ぴったり息のあった二人のパフォーマンスの成果は空中高く浮かんでいるしなやかな身体だった。そのまま空中で足を上に頭を下にの一回転。さらに半ひねりまで入れる。2m以上の高さにまで跳び上がったというのに、着地音はほとんどなかった。ブーツの裏が床とすれるバスケの試合のような音もしない。ネコの落下を思わせた。
翠さんが背筋を伸ばし、まるで体操選手の決めポーズのように両手をさしあげた。拍手と喝采が鳴り響いた。そして男性と一度こぶしをぶつけ合うと、再び開始線まで歩いてゆく。そこまで見届けてようやく、かんなは息を吸い込もうとしたのだった。あまりに長い時間息を止めていたための大量の吸気は肺を驚かせてしまったらしくごほごほと咳き込む。そしてわかった。これだったんだ、と。
目の前の女性には今月の初めのテレビからずっとあこがれていた。姉が物好きにも参加している迷宮探索、その特番があると聞いてチャンネルを回したのは姉がもしかしたら映らないかなと思ったからだった。しかし開始直後、二人の女戦士の稽古を見てかんなは電撃に打たれてしまったのだった。そこにいるのは自分が常日頃こうありたいと思っている剣士だったから。動きが大きくトリッキーな女性の木剣を受け止め受け流し、隙あらば切り込みながらもそれは自分が学んでいる剣道の基本を一歩たりとも踏み外していない。激しい戦局では剣筋が乱れてしまい、県大会の上位校の選手たちでもその傾向はあったから、美しい太刀行きというのは夢物語でしかないと思っていたその意識を打ち砕いたのだった。防具をほとんどつけずに残像だって見えそうな動きで立ち回りながらも雑な打ち込みがまったくない。私はあの人になりたいんだ。そう思った。
さっそく姉に、あれは誰なのだと訊いた。姉はその番組を見ていなかったが心当たりはあると言った。迷宮街でも女戦士は少なく、さらに美しい女戦士は二人しか思いつかないと言ったからだ。
笠置町――なんとか。うん、下の名前忘れた」
この野郎すぐ調べろ! ていうか紹介してお姉さま。お願い。
その言葉に「いいよ!」と言われて電話を切られたのが放送の夜、しかしずっと音沙汰なく怒り心頭に発した何度目かの催促電話に「そういえば明日お祭りやるらしいよ」と思い出したことだけで許してやる気になった。すでに録画して部員たちには見せてあったから部員たちも練習を休んで見稽古することに異論はなかった。
しかもお話もできちゃったし。その上稽古もつけてもらえるって言うし。
試合開始までに十分有頂天になっていた気分だったが、試合が始まってすぐにさらにそれを超えてしまった。目の前にいるのはテレビの画面に映っていた女性とはまったく違う別物だったからだ。収録があってからさらに上達したのかもしれない。そんな人にこれから稽古をつけてもらえる! かんなは幸せだった。
ざわ、と会場がどよめいた。かんなは興奮のあまりにバタバタと足を踏み鳴らした。落ち着け! パンツ見える! どこかで聞き覚えのある声がする。でもそんなことはどうでもいい。目の前ですごいことが起きつつあるのだから。
開始線で翠さんが腰を落としている。木刀を右腰にそえて、左手で柄を握る。膝をたわめ、かすかな前傾。視線は斜め下でおそらく男性は見えていない。
居合だ。