剣士なんか大嫌いだ。
迷宮街では自分たち前衛職は幾通りかで呼ばれている。一つはもちろん戦士であり、前衛と呼ばれ、剣士と呼ばれる。それらは基本的には同じ用途で使用されるが剣士だけは特別な意味をもつことがあった。きちんと剣道もしくは剣術の訓練を受けた人間に対する尊敬を篭める場合だ。
いわゆる剣道の経験者なら珍しくはないし、剣士とわざわざ呼ばれることもない。現在その呼称を受けているのは三人だけ、寺島薫(てらしま かおる)と鈴木秀美(すずき ひでみ)、そしてなんといってもこの笠置町翠(かさぎまち みどり)である。優れているとはいえ剣筋に乱れが見られる寺島、小太刀を両刀で使うことからいわゆる剣士のイメージとは遠い鈴木とは違って眼前の娘にはまさに剣豪の雰囲気があった。
こいつらの何がいやかって言うとだな。胸の中でぶつくさとひとりごちる。
構えたところに踏み込むのがすげえ怖いんだよ。
腰を落とし斜め下を見つめる視線は半眼。攻めようのないその姿に気をくじかれ、安全と思われる距離をおいた。腰に手を当ててじっと眺める。どこにも隙なんざない。俺、しくじったらたぶん死ぬ。やだなあ、地上で死ぬことになるなんて。
そのまましばらく攻めあぐねていると、なんだか息苦しくなってきた。なんだこれは。思い切り深呼吸する。しかし閉塞感はまったく変わらない。ちなみに目の前の娘の張り詰めた雰囲気も変わらない。
なんだろう? ちらりと視線を観客席にやって、その視線が常に観客と重なることに違和感を感じた。全員が俺を注視している? これか? この視線か?
この膠着状態を打開しろっていうプレッシャーか? これは。
周囲の目なんか気にしない性格のつもりだった。しかしここまで会場中の期待を感じるとさすがにしんどい。でもこれは、と思い直す。これはチャンスではないだろうか。自分がこんなにしんどいのなら、まだ若い目の前の娘もそうとうきついはずだ。であれば先に彼女が音をあげる。その一瞬で切り込めばいい。心を決めたらすっとプレッシャーが弱くなった。
息を吸い込み、ため、ゆったりと吐き出す。
いつしかその回数を数え始めていた。
30回目。
そこで我に返った。いまの状態ではおそらく1分間に6〜8回程度しか呼吸していないはずだ。つまりもう3分以上経っていることになる。おかしいな。笠置町さんはどうして平気なんだろう? ちらりと視線をセコンドに当てた。そして愕然とした。
真壁の野郎! 文庫本読んでやがる!
真壁啓一(まかべ けいいち)というセコンドの戦士は、緊迫しているこの状況を気づかずにいるとでもいいたげにあぐらをかいて文庫本を広げていた。
指示出せボケ!
心の中で罵って、なるほどなと納得する。観客は全員そう思っているはずだ。二人が膠着していて、観客の重圧が二人にかかる。それは一見正しい数式なのだがその二人が戦士とセコンドというのでは調子が狂ってしまう。観客は今こう思っている。自分がひしひしと感じているように、びびるな攻めろ黒田、と。そしてのんびり本読んでんじゃねえ攻めさせろ真壁、と。その結果、実際に戦っている娘に向かうべき重圧がかなり軽減されていた。汚ねえよ、二対一だなんて。
大きく息を吐いた。そして木剣を青眼に構える。
腕の骨折られる程度は覚悟して、居合より早い突きを決めるしかなかった。それができないとは思わない。しかし、怪我をさせないように寸止めできるだろうか? もし顔に怪我などさせてしまったら。額に汗がにじんだ。
笠置町さん、ごめん」
予想外の言葉に翠がすっと視線をあげた。
「顔に傷とかつけたら責任とるんで」
翠は笑った。すっきりしたいい笑顔だった。
「なにが起きても恨みませんよ。今日のこの一試合のために剣を学んできた気がします」
精一杯の脅しだったのに! この剣道キチガイめ!
ちくしょう。知らねえぞバカ。傷つけたら責任とらせてやる。真壁に。四の五の言ったらその時点で命日だ。一歩踏み込んだ。