え? と笠置町葵(かさぎまち あおい)は座ったままの仲間を見やった。双子の姉はもう試合場に向かって観客席を座る人々の間をすり抜け下りている。真壁さん、翠のセコンドについてあげないの?
「いや、いらないでしょう」真壁啓一(まかべ けいいち)は苦笑して手を振った。いくら動揺してても黒田さんを目の前にしたら普通に戻るよ。普通に戻ったんなら俺の出る幕はないって。さっきの光岡さんとの試合でよーくわかった。これから起きるのは『あなたの知らない世界』だよ。
この男は・・・。葵は心中で頭をかかえる。肝心なところで女心がわかってない。東京の恋人さんも大変だわこれじゃ。ともあれ正面突破はむりとして、いちばん効果のありそうな方法を試すことにした。脅しだ。私と翠はね、と話し出す。
「お父さんに鍛えられてきたから中学校までずっと代表リレーの選手だったんですよ。もちろん翠とかけっこしたら私が負けるんですけど、それでもお互いがアンカーになっての対戦成績は私の7勝0敗。翠は期待されるのとちやほやされるのがすごく苦手なんです。スイッチ入ると、どんな大舞台でも自分で切り替えできない子なんです」
いやそれにしたって――反してあげられる言葉を押しつぶす。
「地下で生きるか死ぬかなら切り替えますよそりゃ。でもこれは結局トーナメントでしょ? 自分での切り替えはむりだし、切り替えできなかったら負けるでしょ」
かといって俺だって、どうすりゃ切り替えられるのかわからないけど。ちょっと罪悪感を感じ始めた(今更か!)顔にかまわず続ける。
「いや、私だって真壁さんができるなんて思ってません。それに、こんな大会切り替えできなくて負けたって別にたいしたことじゃないし、ベストコンディションでも相手が黒田さんだから負ける可能性のほうが高いと思います。だからいいの、切り替えしなくても。――私に限ってはですけど」
葵に限って?
「うん。今あの状態で負けたら、翠はきっと真壁さんを恨むと思うな」
笑顔が凍りついた。
「真壁さん、この街にあと6日もいなきゃいけないんだよ。そのあいだ翠にずっと恨まれてて――生きてこの街から出ていけると思います?」
言葉の終わりを待たずに真壁は立ち上がっていた。ちょっと謝ってくる。そう言って座る客たちの間を縫って歩き始めた。