翠、と呼びかけるその声は耳鳴りのような歓声(それはなぜか音程の高いかわいらしい声援だった)を圧して届いてきた。抗うことができずにそちらを向くと、見覚えがあるような男の顔があった。なぜだか無性に敵意を掻き立てられる。こっ、この野郎――
しかし怒りの言葉が歯垣を漏れる前に鼻に強い衝撃がもたらされた。痛み。なんだ? 何をされた?
手早く目の前の男が何かを自分の鼻の穴に突っ込んだ。チリ紙を丸めたもの? 片方だけ? 鼻血が出たのか? 視線を下に落とすと足元にいくつかの血のしずくが垂れており、少し視線があがった真壁の腰の高さ、背景に女子高生たちの愕然とした表情が見えた。
どうやら。混乱する頭で納得する。どうやらこの野郎が指で私の鼻をはじいたらしい。鼻血が出るほどに。
「翠」
攻撃をしてきた相手なのに。なぜかその声には抗えない。指差す方向をおとなしく眺めた。試合場の向こうには男が一人立ちこちらを油断なく伺っている。その雰囲気が、背中に電流を走らせた。そしてまた名前を呼ばれた。振り向いた。仲間の戦士がこちらを見つめている。あれが敵だ。その言葉にうなずいた。そして男が自分自身を親指で指した。ここに味方が一人。もう一度うなずく。
「今気にするのはそれだけだ。おさらいしよう」 そして自分の対戦相手を指差す。
「あれが敵」うなずいた。黒田聡(くろだ さとし)がどことなく不安げな表情をしている。
「これが味方。というか道具と思っていい」うなずく。真壁啓一(まかべ けいいち)がにっこりと笑った。その笑顔にほっとした。
「さ、がんばっておいで!」ぽんと背中を叩かれる。それが引き金に自分の神経が研ぎ澄まされていくのが分かる。大変な騒音をすべて聞き取りながら、それらに心が動かされない。ただ一つだけ、片方鼻がふさがれていると息がしづらいな、それだけをちらりと思い次の瞬間には忘れた。
さて、どうやって勝とうか。