不自然に倒れた娘が息を吹き返すのを確認し、真城雪(ましろ ゆき)は試合会場に戻った。あまり人のことばかりを気にしてもいられない。次は自分の試合であり、相手は自分と同格以上にいる戦士だった。ごめんよ、ごめんなさいねと声をかけながら土嚢のつまれた斜面を登りきると、階段状につまれた土嚢に囲まれた試合会場の様子が一望できた。そして眉をひそめた。
「おっちゃーん、何やってるのさ」
試合場に一人、観客から遠巻きにされていた神足燎三(こうたり りょうぞう)はその言葉に顔をあげた。そして笑顔になる。お嬢! お前も手伝え! 舞台作ってるんだから!
舞台? これまではもちろん何も置かれていなかった試合場にはあちこちに土嚢が散らばっている。それは不規則で、四つほど並べられているものもあればいくつか積み重なって小山になっているものもある。また物好きなと苦笑して試合場に入っていった。そして一つの土嚢をひょいと踏み越えてみる。
眉をしかめ、依然として試合場脇に積み上げてある予備の土嚢を放り投げている男を見つめた。おっちゃん。ちょっとそこから歩いてこっちに来てみてよ。神足はいぶかしげな顔をすると、それでも断らずに土嚢をまたいでこちらに歩いてきた。その動きをまぶたに焼き付け、自分が踏み越える動きと重ねてみる。
あれと同じだ、と思い出すのはかつて愛した男に教えられた趣味だった。ボルダリングという、垂直の壁に人工的に設置した突起を手足で保持しながら登っていくスポーツ。ほんの数センチの手足の長さが動きを大きく左右することがあるとそのスポーツで知った。あれと同じだ。この土嚢の高さはそれほどのものではない。ほとんど気を使わずに目の前の男がまたぎ超えることができるくらいのものでしかない。それでも自分にはちょっと意識しないと足をとられる高さだった。絶妙だな! と自分の不利を理解しながらも感心してしまった。さすがは探索者一の食わせ物。彼我の足の長さを考えてこの障害物を設置したに違いない。
動きだけで意表をつくのではなくまさか地の利そのものを自分によいように作り変えるとは思わなかったわ。その予想外の発想がなんだか誇らしく感じた。やっぱりこの人はこうじゃないとと思う。
あのさ、おっちゃん。すごく歩きづらいんだけど、これ。
「そんなの努力でカバーしろ」
あっさりと苦情を却下されて苦笑した。神足はさらに続ける。
「迷宮街の外からもお客さんが来ているようだし、斬りあいの妙を味わえるほど経験がある人間ばかりとも限らない。せっかく来てくれたんだからわかりやすい闘いにしないとな。それにはこういう障害物の間をお嬢がぴょんぴょん飛び回る絵もいいだろう。お嬢は歩きづらいと文句を言うが、俺は、この舞台はお嬢向けだと思うぞ」
その通りだ。あちこちに置かれた土嚢は一つ一つが彼女が跳躍する際の足場になってくれるだろう。平たい地面を蹴る場合とこのような足場を蹴る場合とでは跳びやすさも距離も明らかに違う。またぎ超えるなら神足が有利、またぎ超えようと思わなければ自分が有利。実際戦う方としても面白いことになりそうだった。
じゃあ手伝え、と言い残して神足は土嚢の山に向かった。あいよう、とその後を追う足を止めて一度眺め回した。
そして目を閉じる。ぱっと脳裏に映し出された風景は、この試合場を上から見下ろした図だった。自分のいる位置だけはぼんやりと何も映っておらず、あとは土嚢が散らばっている。こころを読み取って正確に描きだす機械が存在するならばその位置がいま現在の並び方と寸分たがわないことがわかるだろう。
迷宮街に来た頃世話になったあの戦士、彼はこの超能力とも呼べる力を知っていただろうか。外からわかるわけもなく、口に出したことはないはずだから知らないだろう。知っていたらこのような舞台は作らないはずだ。
サッカーの中田選手も同じ才能をもっていると聞いたことがある。視覚情報を上空から見下ろしたように再構成できる特殊能力。上空からの映像を同時に見ることができれば、各人の位置関係がとてもよくわかるのだった。彼のパス技術の一端を担っている特殊な情報処理能力は、自分にとってもかけがえのないものだ。これがあるからこそ跳躍で威力を増す無謀な剣術で戦うことができるのだ。
その自分には、試合場に散らばる土嚢の位置が手にとるようにわかった。滅多に動くものではないために戦っている最中にいちいちその位置情報を更新せずとも良い。土嚢ひとつの高さも理解して、どう足をあげればまたぎ越せるかも覚えた。つまりもう、自分はいちいち足元を見る必要はないのだ。あの戦士とは違って。
策士が策におぼれたよ、おっちゃん。土嚢をかかえて嬉しそうに見回している中年男に意地悪く胸のうちで語りかけた。