初め、という声と同時に目の前の若い戦士が地を蹴った。そうだ、と闘いの場でありながらも国村は教師の思いでその動作を見守っていた。そう、俺は身体がまだ本調子じゃない。お前の渾身の動きにカウンターを当てられるような状態じゃない。そう判断したなら様子などは見ることなくただがむしゃらに、慎重に攻めるんだ。
試合場の対角に彼が登場してからたった数十秒だが、国村光(くにむら ひかる)は佐藤良輔(さとう りょうすけ)という若い戦士を好きになっている自分に気がついていた。他人からは理解不可能と言われるほどの体さばきを実現してなお、国村は天才という存在が大嫌いだった。彼が好きなのは自分を過大評価も過小評価もせずにただ可能性だけを信じている瞳である。この街でもたびたびそのような瞳に出会い、実戦の機会が少ない彼にとって訓練の時間は非常に大切だったにも関わらずその瞳に頼まれるとついつい指導してしまうのだ。もしかしたら教師に向いているのかも――何?
彼の大好きなその瞳が少しだけ大きかった。最初の跳躍の勢い、それまでに判断していた身体能力の限界から予想していた一度目の着地点よりほんの少しだけ前にいることを示していた。
ほんの少しの距離、しかし迎え撃つものにとっては絶望的に大きな距離。
なんだ? 何が起きている?
わけもわからないまま、自分が試合前に予想していた限界を超えている運動をただ目で追っている。地を掴んだ左足はすぐに切り込めるように十分に力を蓄えていた。何かまがまがしいもののように木剣が自分に向かっている。しかし防御の動きはその予想外の速さと鋭さに比して悲しいほどに遅かった。
これは、いったい――?
木剣がヘルメットに触れる直前に首をねじることができたのは考えての行動ではない。探索が開始されてからずっと死線をくぐってきた経験が身体に命じたものだった。それで何とか深刻な怪我は避けることができそうだった、しかし。
考えるよりも早く、頭部をないだ衝撃をそのままに自分から倒れこんで距離を稼いだ。着地、回転、跳躍、頭の中に入れている場外ギリギリまで慌てて避ける。その見事な逃げっぷりを見て、若い戦士は追い討ちをあきらめた。そして審判を眺める。国村も同じ人物を見た。
あまりの驚きに極限まで研ぎ澄まされていた聴覚が誰かの呟きを拾った。ほんの囁き声だった。
「翠ちゃんは開始前の動きしか見ていなかった。国村さんもそうだろう。でも、あの動きは佐藤の全力じゃなかったんだよ。わざと抑えて動きを悪く思わせたんだ」
なるほど、そうか。自分は良く知らない相手を見くびりその報いを受けたのか。傍からならかわしたと見えるかもしれないあの頭部への一撃、食らったからこそわかっていた。これまでの闘いの日々でもっとも自分に打撃を与えた一撃だったと。真剣だったら絶対に死んでいた。おそらく死体は顔の判別もつかないのではないか。
だが判定は下っていない。国村は怪訝に思い審判を見つめた。審判は表情で今の一撃が無効であると伝えていた。なぜか苦渋の表情にも思える。おいそりゃミスジャッジだろ――今のはどう考えても俺の負けだ。若い戦士は何も言わないのか? 移した視線は燃える戦意に迎え撃たれた。
明らかに誤りの判定で勝利を逃した若者は、しかしまったく動揺していないように自分に視線を置いていた。あとの試合を考えないピーキングからしてこの試合だけ勝てばいい事情が何かあるのだろうと思っていた若者の動機は、実は違うものかもしれない。もしかしたら――
もしかしたら、この場で自分と全力で戦うためにここにピークを持ってきたのかも。なんという光栄か、そして自分はその思いにどんな応え方をしたというのだろうか。ろくに準備もせず、試合を観ることすらしなかった。世界で一番の卑怯者になった気がする。惨めだった。
ぎゅ、と木剣を握り締める。今からでも許してもらえるなら全力で相手をしよう。そうなったら試合は自分が勝つはずだ。悲しいが、実力差とはそういうものなのだ。しかし勝負は別だ。この場での勝負もそうだし、もっと人として重要な何かにおいても自分は目の前の若者に負けたのだ。そのことは一生忘れない。忘れられない。