しんと静まり返る中を橋本辰(はしもと たつ)は大の字になっている若者のもとに歩いていった。序盤の試合は知らないが彼が審判をするようになってから初めて明らかにそれとわかる怪我だったからその沈黙も仕方がないのかもしれない。しかしそれを圧して空気に含まれるのは勝者への怒りと憎しみだったろう。一身に浴びる国村光(くにむら ひかる)はまったく動じる様子もなく敗者を見下ろしていた。激戦を示すものは、緩やかに上下する胸板のみ。それは対戦相手の佐藤良輔(さとう りょうすけ)の様子とはまったく対照的だった。
投げ出された佐藤の四肢、右腕が二箇所で曲がっていた。通常通りに肘で、通常とは違い肘と手首の間で。地面と接するツナギが黒くにじんでいるのは、おそらく折れた骨が皮を突き破ったのだと思われた。開放性骨折だろう。
うわ、と小さな声が聞こえて視線を上げる。客席の一角倒れている戦士のセコンドに当たる位置にいる青年がもらしたものだった。彼は、一人挟んで隣に座る娘と同じように中央の巨漢の腕にしがみついていた。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)という名のその巨人は倒れている戦士の仲間に当たる。目の前で行われたものがたんなるいたぶりにしか思えず、倒れたまま一言のうめき声も発しない戦士の姿にすっかり平静を失っており、実力的に同レベルにいる二人の第二期の戦士をもってしてようやくその動きをとどめているのだった。この男はまだ今の勝負を見切れていないらしい。それに比べれば抑えている二人のほうが、まだ何がおきたのか理解しているのだろう。会場を見回す。剣呑な光を視線にたたえているものは第二期の戦士もしくは後衛だけだった。戦陣を経験している第一期の戦士たちはさすがに目の前のやり取りに気づいているのだ。
「くっそーーーーーーーー!」
突如の大声は橋本の足元からで、さすがに驚いた。続いてミラコスタがー! という叫びが続く。
ミラコスタ? 聞きなれぬ言葉に視線を上げると巨人の表情が視界に映った。戸惑っているその身体はもう暴れようとはしていないらしく両隣にほっとした顔があった。このケガ人が何を言っているのかわからないが、どうやらバカの暴発は免れたらしい。
ミラコスタミラコスタとうめきながら運ばれていった(境内で治療術師の治療を受けるのだろう)戦士を見送ってからようやくアナウンスが国村の勝利を告げた。熱狂的とはいえないがしっかりとした祝福の声がかけられ手を上げてそれに答える国村が、ふと視線を自分に向けた。
「橋本さん。どうして私の負けにしなかったのですか?」
それは小声だったから誰にも聞こえなかったろう。橋本は同じく小声で答えた。佐藤の気迫はあれが頂点に達していた。お前と戦うためにあそこまでもってきたのなら、気の抜けたお前に勝ってもうれしくないだろうと思ってな。どうせ佐藤が次の試合に出ても抜け殻だから、あいつにはいい経験を、試合は順当にお前の勝ちでいいだろう。
未熟者ぞろいの戦士たちの中で、国村光だけは認めていた。剣術は未熟で才能もないが、その身体能力はおそらく人類の剣たちを超えるだろうと思っている(津差龍一郎が筋力だけならどの人類の剣よりも強いように、それは別段珍しいことではないのだ)し、戦士ではなく教師としてだったら十分人類の剣に認定されるレベルにまで育て上げられるだろうと思っていた。人類の剣は10万円の維持費用の代わりに一人は後継者を育成しなければならない。天性の才能を持って生まれたために剣士としての他者を認めきれない自分にとって、国村こそがノルマを果たすための道だと思っていた。
境内にあたる方角を眺める。エーテルの豊富なそこでは今頃あの戦士の治療が行われているのだろうか。そしてふと、ミラコスタとは何か? と国村に尋ねた。
ベスト4の賞品ですよ。東京ディズニーシー内部にあるホテルの優先宿泊券なんです。
それを聞いて苦笑した。同感だったのか国村も吹き出した。私はてっきり――それから先は言わない。
実力の次元が違う戦士が本気を出して始終翻弄されながらも、1分足らずの短い時間の中で三度すばらしい打ち込みを佐藤は見せた。それは本人の実力からはまったくかけ離れていた水準だったのだ。普段バカ正直に素振りを繰り返しその上で集中力を極限まで高めた人間だけがようやく出せるような、本人にはできすぎの一撃。それはもちろん実力が上の対戦相手には十分対応できるものだったが、それは地力が違うだけのことだ。相手がいて防戦をしながらそのまぐれでしか出ないような打撃を三度も繰り出すその普段の鍛錬そして修練は十分すばらしいものだった。よほどの執念と感服していたのだが、それがまさか、単なる遊園地の優先予約券のためだったとは。痛快に思えて低く笑うと、もう少しはっきりと国村も笑っていた。
どうやら鍛え甲斐のある人間が二人になったらしい。にやりと唇の端をあげると、背を向けて歩み去ろうとしていた背中に声をかけた。ミラコスタとやらの券、佐藤に譲ってやれ。国村は愕然として振り向く。
ちょっと待ってください! 私にだって優先宿泊券は貴重なんです。東京は遠いしなかなか先の予定が――
「国村」
言葉をかぶせると勝者は沈黙した。実力差とはそういうものなのだ。
「この会場には息子が来てるんだ。恐喝をするような父親を見せたくない。だから譲ってやってくれ」
国村はなおも抗弁しようとし、言葉を捜し、ぐ、と黙り込んだ。そしてしぶしぶうなずく。実力差とはそういうものなのだった。