開始の声を耳の後ろのほうで聞いた気がした。それだけのスタートだった。視界の真中で普段どおり余裕のあった顔がこわばる。地下では比較にならず地上においても実力が上の相手だ。いくらいいダッシュを切れたところで勝利はまだ見えないところにある。それでも、一つのことだけは教えてやれるはずだ。自分の覚悟の量だけは。葛西紀彦(かさい のりひこ)は姿勢を低く、ネズミか何かのように走る。
目の前に立つ黒田聡(くろだ さとし)の先ほどの試合は当然見ていた。理事の娘である剣の天才との闘いは静と動が劇的に変化するもので時には争い時には協力して一つの演舞を作り上げていた。それは二人ともの戦闘におけるセンスの良さ、相手を認める気持ち、何より余裕を示していた。そしてそれよりも、その演舞を作り上げた二人がそういった華のある闘いを好み実現するだけの資格がある剣士たちだということも感じさせた。
地下でならともかく、地上のこの四角いマスの中では笠置町翠(かさぎまち みどり)に自分は劣る。それは誰もがわかっていることだ。当然目の前の男も知悉していることだ。だったらこの男はまたもや闘いを演出しようと考えるかもしれない。
でも、それはできない。この勝負はアンタの女性ファンを増やしもしないし綺麗な終わり方にもならないし、勝敗だってアンタの思うとおりにはきっとならないだろう。これからここで起きるのは殺し合いだ。少なくとも俺はそのつもりだ。
開始の声から1秒もかからずにあと一歩で間合いに入る。黒田の顔はこわばり腰には力が入っているが木剣を持つ右腕はまだ準備ができていないようだった。一発目は右からの逆袈裟で行くぞ。もちろん当たりはしないだろうが目は覚ましてもらう。
剣先がかつんと床に触れた。先ほどの試合で、この音が相手の意識を奪うと知ったから試しに混ぜてみた小細工だった。
第二期の戦士は惑わされた音にもさすがに黒田は動じない。そしてその目に嫌な予感がした。
ぐん、と腰がたわめられる。ゆったりしているはずのツナギが膨れ上がる。斬撃を中断し思い切り右に飛びのいた。
風? 屋内で?。
何か巨大なものが身体の脇を通り抜けた気がした。一瞬あとに最後に残った左足が何かにさらわれた。身体がひっくり返され、コマのように旋廻しようとする。その勢いは肩から地面に墜落したあとも何度か身体を回転させた。土手の斜面をころがり落ちる時のように方向感覚を失いながら視線は必死に黒田の姿を探す。さらに詰め寄ろうかとうかがう視線と一瞬絡み合い、そのためかはわからないが彼は追い討ちをあきらめたようだった。
回転がとまり跳ね起きる。吐き気すら起こすほど混乱させられた三半規管を必死になだめようとしながら目の前の男を見つめた。アンタ剣士だろうが! いきなりサッカーボールキックかよ! 蹴られた足はまだ痺れている。
何故だかわからないがためらって追い討ちはしなかったようだ。けれど一つのことは思い知らされた。この男はこの試合に華など求めていない。自分と同じかそれ以上の覚悟はできているらしい。認めないわけにはいかなかった。