黒田聡(くろだ さとし)は軽い吐き気を感じていた。何かおかしい。今日になっての連戦でかつてないほど鋭敏に研ぎ澄まされた感覚が教えてくれたかすかな違和感、床を転がり完全に無防備だった敵手に対する追撃をやめさせたのはそれだった。このまま突っ込むのはまずいと直感したのだ。
目の前に立つ葛西紀彦(かさい のりひこ)を注意深く眺める。突然の回転で目が回っているらしく、腰を低く落としたままこちらの様子をうかがっている。今がチャンスだ。奴はロクに動けないはずだ。今踏み込めば、踏み込め、踏み込めってば。
なぜ踏み込めない?
開始からの動きを思い出した。審判の声に対する反応速度、そのあとのダッシュ、逆袈裟の剣筋、全てがさすがは精鋭部隊の前衛だったしある種の伝説を打ち立てている男といえるレベルであり、しかしそれだけのことだった。真壁啓一(まかべ けいいち)ならばさらに早いタイミングで行動を開始するだろう。秋谷佳宗(あきたに よしむね)ならばもっとダッシュは早いだろうし、笠置町翠(かさぎまち みどり)や寺島薫(てらしま かおる)の逆袈裟なら自分の足をへし折る太刀ゆきの速さのはずだ。タイミング、脚力、剣速すべてで高いレベルを成し遂げたのはたいしたものだが、集中の次第では珍しいことではない。歴戦の戦士なのだ。
しかし何か違和感を感じたのだった。それがわかるまでは迂闊に突っ込めないと思う何かが。
(これがマンガや小説だったら――)
葛西が軽く頭を振った。かすかに揺れていた視線がついにぴたりと自分を捕らえる。木剣を脇構えにしながらすり足を開始した。やる気は十分らしい。舌打ちをこらえる。
(さゆりの言葉を思い出してヒントを掴むんだけど――っと!)
今度は間合いに入るや同時の右袈裟だった。左手を刀身に添えてようやく受け止めた衝撃はかかとにまで突き抜け、さらにかみ合わせた木剣から大変な力が伝えられてくる。歴戦の戦士の脚力を全て乗せて押し付けられる刀身はもう逸らすこともいなすこともできなかった。やればできるかもしれないとは思うし鈴木秀美(すずき ひでみ)だったらコロコロ転がしそうだが、いくら感覚が鋭敏になったとはいえ技術まで上がったわけではないのだ。ムリは禁物である。
「葛西くん、力で俺に」
ぐ、と腹に力をこめた。至近にある顔色が変わった。もしかしたら、自分が押し気味だと思っていたのかもしれない。
「かなうと思うなよな!」
両手を解放すると文字通り葛西の身体は跳ね上がった。葛西の身長はたしか178センチ。自分が183センチでそれだけでも大きな違いがあったが、それだけではなく黒田は膂力には自信があった。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)や南沢浩太(みなみさわ こうた)のような存在自体が反則の相手でなければ力では負けないと思っている。
押しやり態勢をくずし、十分すぎるほどの追い討ちのチャンスだったがやはり見送った。積極的に飛び込む足を封じられたようなそんな感覚がある。種明かしせず、自分で納得せずに試合に臨んだのは致命的な失敗だったのかもしれなかった。真壁! あのむっつりスケベめ! あとで女帝にいいつけてやる!
恐怖か? 違うと思う。鈴木秀美の小太刀の間合い、笠置町翠の居合、自分が経験してきたそれらの地獄に比べたら目の前の男は技術でも身体能力でもまったく脅威に感じられない。あれを乗り切ってきた自分がここで恐怖するはずがない。
しかし自分は躊躇しているのだ。踏み込むべき隙を全て見逃している。格下であるべき相手に苦戦している。何がなんだかわけがわからない。そこで容赦なく葛西が一歩距離を縮めた。震える奥歯を強く噛んだ。