両腕は軽く曲げられ顔の前に挙げられる。それを振り下ろすと同時に膝がたわみ、腰の位置が全く前後することなく垂直に下に落ちた。落ちるといってもその速度はあくまでゆっくりと、その人間が制御している動きだと見ていてわかる。落ちる腰は速度の増減なく静止した。その位置は深い。腿と地面とが水平になるまで降りて、しかし腰自体はかかとの上から前後せずに、またかかとは地面から浮き上がっていなかった。見守る佐藤良輔(さとう りょうすけ)にはありとあらゆる格闘技の経験がなかったが、それでも漫画くらいは読んだことがある。ある中国武術を題材にしていた少年漫画では、その足の形と同じ態勢を馬歩と呼んでありがたがっていた。いわく、数十年の修行の末にようやくモノになるその武術の入り口にして出口(少なくとも仮免試験)なのだとか。もちろん佐藤にはその姿勢が中国武術的に正しいのかどうかはわからないが、それでも静止するその姿勢が安定し、美しく、その横顔に打ち込む自分がまったく想像できないことだけはわかる。
同じように前触れも遅滞もなく腰があげられた。背中は相変わらずピンと張り、膝を軽く曲げたところで再び静止した。男の名前は国村光(くにむら ひかる)という。この街ではもう数人になってしまった第一期でも最初の三日間に登録した最古参の戦士であり、現在では平日をサラリーマンとして休日を探索者として過ごす『週末探索者』として有名な男である。最古参の探索者であることも週末探索者であることもこの街では珍しいと思われることだったが、明日からその名はより名誉な評判に上書きされるだろう。すなわち迷宮街最強の戦士の一人と。
もとより評価が低かったわけではない。週に1回の探索でありながら身体を鈍らせることもなく第三層の激戦を生き抜いている時点で誰しもが端倪すべからざるの思いを抱くところであり、最精鋭四部隊の全ての戦士たちが異口同音にその能力を認めることで、その実力に対する他の戦士たちの疑問は圧殺されていた。それでも、土日だけやってきて訓練場でも精鋭部隊の戦士たちとばかり打ち合っている彼の実力を大多数が実感する機会はほとんどなく、根強い不信はあったのだ。彼は本当に強いのか? というものが。
それは完全に証明された。名古屋から駆けつけたための1回戦シードを経た初戦は進藤典範(しんどう のりひろ)で第二期では有望な戦士とはいえ格が違ったが、その後は狩野謙(かのう けん)、そして自分だった。最精鋭部隊へスカウトされるほどの戦士と第二期では数少ない自警団に選ばれる自分。確かに評判どおりの実力があるのならば二人を下すことも納得できないことではないだろう。しかし、ともに圧勝するというのは生半可の実力では考えられないことだった。この会場にいて疑問を持っていた全ての戦士が、看板に偽りのなかったことを実感しているはずだった。そして実際に立ち会った佐藤もそのうちの一人だった。名前と先輩戦士たちの態度のみから恐れていた相手の実力を実感し、腕の骨まで折られてしかし彼は感動していた。勝てなかったことは(正確に表現するなら目指していた紙切れが手に入らなかったことは)非常に悔しいことだったがそれを補って余りある充実感に満たされている。
そして疑問のすべてぬぐわれた目で単純なスクワットを眺めてみればそれは普通の人間が思い描くものとはまったく別物なのだった。足首ってのはそこまで曲がるものなのか? と思わずにはいられないほど前傾する脛、自分と同じ程度には大柄な身体が下がっても膨らむ様子が窺えない太ももの筋肉、まったく力が入らずにそれでも凛とした緊張感を見るものに与える背筋、そして何よりその動作の速度が異常だった。
早いのではない。遅いのでもない。意識せずに思いのままに繰り返されているのであろう上下運動は、しかし動作の開始から終了までまったく速度の加減が見られないという点で佐藤の常識を逸脱していた。どんな列車だって駅のホームを出るときにはゆっくり動き出すように、人間の動きも最初からトップスピードを実現することなどできはしない。それは物理原則に反するはずだった。これだと先ほどの試合を思い出す。面と向かったこの男は、「あ、動き始める」と思うことすらできなかったのだ。他の戦士だったら動き始めを実感し動作の最速点にいたるまで猶予が(もちろん実力が上の相手だったらそれは猶予と呼べる時間にはならない)あるものだったが、この相手は違ったのだ。そのときの感覚は「あ、動いてたんだ」というものに近かった。
もちろん目の前の男も生物なのだから、トップスピードまでの加速をゼロに短縮できるはずがない。しかしその間隔は佐藤の手に余るほどに短く、そうである以上ゼロ秒と同じ意味を持つのだった。ゆったりした準備運動を見るだけで現段階での格の違いというものを思い知らされていた。
だが、現段階での話だ。
そう。こんな格の違う相手、この街に来たその日に対していたとしたらおそらくわけもわからずに切り伏せられていただろう。だが今は、どうしてかなわないのかその一角がわかる。本当にわかっていないとしても推測はできている。そのぶんだけ自分は上達したのだし、まだまだ自分の能力に限界を感じてはいなかった。
「佐藤くんさあ」
動作には乱れなく問い掛けられた声になんですか? と応じる。
「そんなにミラコスタに行きたかったの? あの女の子と?」
あの女の子? 鸚鵡返しに呟いて数秒考え、しかしあの女の子が思いつかなかったようで佐藤は首を振った。いや俺のためじゃないですよ。妹とその彼氏にあげたいと思って。妹の彼氏が忙しいから前もってチケット取れないんですよ。
「ああ、俺もそうだ」
「噂ですけど、ゴールデンウィークは一年前から埋まるとか埋まらないとか。だからベスト4狙ってたんですけどね。まあ実力が足りないのだから仕方ない」
「あきらめられるのか?」
あきらめるも何もと佐藤は苦笑した。手に入らなかったんですから。俺の実力でベスト8ってだけでも大健闘ですよ。そして、USJチケットは的場さんが欲しがってたからあげることにしようと呟いた。
「そうか、そうか」
国村は少し嬉しそうだった。あきらめられるなら、それがいちばんいいな。うん。それが一番いい。
その上機嫌の意味が良くわからず佐藤は相変わらずの動きを眺めていた。優雅とすらいえる筋力トレーニングがふっと過去のある映像を脳裏によみがえらせる。日本舞踊をやっているの、と慎ましやかに笑ったその女性の振る舞いは優雅でサワーのグラスを持ち上げる動作すら美しかった。
ふっと東の方向を眺めた。もうずいぶんと暗くなっている山々の向こうであの女性は今も暮らしているのだろうか。たった一度だけ食事をしただけでこの街を去っていった彼女は元気でいるだろうか。USJチケットも、あのひとがいたら誘えたのになと少しだけ惜しく思った。なぜだか晴れ晴れとした国村の表情には気づかない。