うわ、ヒゲ。開けた視界に映っていた星野幸樹(ほしの こうき)の顔を見て葛西紀彦(かさい のりひこ)がまず呟いたのはその一言だった。星野をはじめ周囲を取り囲んで心配していた視線たちがほっとしたように和んだ。
負けましたねー、とからっと笑って葛西は身を起こした。鯉沼昭夫(こいぬま あきお)の物問うような視線に首を振る。大丈夫。殴られた程度だから治療の必要はないよ。クビはあざになってるだろうけど。あんな細い身体で恐ろしい力だった! その割には殴られたほうはそれほど痛くなかったけど――黒田さん、素手のケンカは苦手なのかな。
野村悠樹(のむら ゆうき)は曖昧な微笑を浮かべた。少し前、酔って探索者同士のケンカをしてしまったとき、その夜の自警団だった黒田聡(くろだ さとし)に鎖骨を折られたことがあったのを思い出したのだ。自分が泥酔していたとはいえその一撃は相当場慣れしたものだった。美男子で物腰は温和なほうで、アナウンスによれば資産家の息子とはいえ実際はもっと物騒な経歴をもっているだろうと推測していた。そこで星野に向き直る。試合前に黒田さんが訊きにきたことなんですけど。
星野の表情が少し険しくなった。由真のことか? 野村は気おされてのけぞった。
「いやそうではなくて。葛西を拳銃で撃ったら死ぬかどうか、です」
その言葉に葛西がぎょっとした顔であとじさった。肩がすぐ後ろにいる鯉沼今日子(こいぬま きょうこ)の鼻にぶつかり悲鳴があがるが葛西は気づいた様子もなく目の前で交わされた剣呑な会話を注視している。
「ああ、その件か」
星野の雰囲気は途端にやわらぎ、一転して険しい表情で野村を見つめた。野村の顔が再度こわばる。
「こういうことが答えだろうな」
当然野村はわからないようだった。途方にくれたように葛西を見やるがそちらにも要領を得ていない表情を見出しただけだった――改めて見るとかすかに青あざが残っているが、馬乗りになった怪力の人間のパンチを受けたとは思えないかすかな跡である。あんなに殴られてこれだけで済んでいる人間だったら、俺が蹴り殺せないのも無理はないか、そんな納得を感じた。
「科学的に解明するのは商社のおちびさんの出番を待つしかないだろうが、おそらく葛西は相手の距離感を少しだけ狂わせる体質なのだと思う。葛西」
はい、とぴんと伸ばした背筋は自分のリーダーの空気がまだぴりぴりしているからだろう。この人が出場していたらどうなっていたのだろうと野村は思った。剣技や体術や体力という以前の問題として、貫禄だけで圧倒され勝ち負けになれない人間が(第一期にも)少なからず現れそうだ。自分も実力を出し切れるかどうか危ない。
続く星野の質問は奇妙なもので、葛西の回答は珍しいものだった。すなわち
「お前、平熱は何度だ?」
「え? 37度8分くらいですけど。俺、なんだか高いんですよ」
おかしいよそれ! という声は鯉沼今日子のものだ。すかさず葛西の額に手を当て、うわっ汗気持ち悪い! と手を引き戻した。その失礼な高度に夫が苦笑しつつも自分は確認しようとしないのは、治療術師である彼は普段身体に触れているから知っているからだろう。ともあれ若妻は確かに熱いと認めた。星野は続ける。
「おそらくこれは身体障害の一種なんだろうな。発熱が四十度越えると危険というから、葛西は普通の人間よりも発熱できる余地がないことになるだから。とにかくどうして葛西が体温が高いのかはわからんが、人間が自然に推測する熱量よりも葛西は少しだけ熱いということになる――これがまず人間の肌の感覚に違和感を与える」
他にもいろいろあるだろうと続けた。おそらく、気功やらオーラやらというオカルトでしか説明できない体質も葛西は備えているはずだ。さらにこいつほど向かい合ってうんざりするタイプの戦士もいない。その結果、俺たち前衛のように実際は視覚だけでなく距離を測っているような人間は、その他の感覚からの情報によって視覚がゆがめられる。葛西の実体よりもほんの少しだけ近くにいるよう感じられてしまう。ほんの少しだけ踏み込みは浅くなり、打撃はほんの少しだけ真芯からずれる。ミートポイントが1センチずれてもスタンドに運べるのは金属バットを使っている高校野球までで、プロじゃむりだ。野村も蹴りの芯から1センチずれたらもう人は死なないだろう」
「少なくとも葛西は死にませんね」
そして腕組みをする。まったく信じられないとその態度は示していた。それはそうだろう。実際見えているというのに、他の情報によって視覚がゆがめられることがあるなんて考えることすら不自然な出来事である。視覚に頼って暮らしてきただけにその感覚の正確さに対する信頼は大きいのだった。視覚とは所詮網膜に映った光線を脳が映像として構成しているのだという事実は、知ってはいても納得はできない種類のものだった。
しかし負けたとはいえ葛西の顔は黒田聡という怪力の男に殴られたとは思えない軽傷であり、それを説明する理由としては星野の意見以外には提示されていない。それに、先ほどの自分との試合を考えてもあの蹴りを受けて試合を続行できた不思議に関しては芯をずらされたと思えば納得もしやすい。
「じゃあ黒田さんは」
「斬ったり刺したりできない武器で葛西と闘うと考えたらあれしかなかったろう。黒田は知らずに勝ち残る唯一の方法を採ったわけだ。生き残るためのセンスというか、悪運というか、とにかくたいした奴だ」
星野の視線に釣られてその場の全員が、寝転がって天井をぼんやりと見ている黒田を眺めた。試合が終わって少し経ったいまその顔はさらに腫れ上がり原型がわからないほどになってしまっていた。それでも次に試合を控える彼は治療術の助けを受けられない。そんな状態であってもそばにしゃがみこむ真壁啓一(まかべ けいいち)と三峰えりか(みつみね えりか)に言葉を向ける時には笑顔を作ろうと努力していることが見て取れた。
「すごい人でした。これまで単なる色男かと反感もってたけど、やりあって初めてわかった。もっと前に稽古をつけてもらえばよかったな」
ぽつりと葛西がつぶやいた。
「でも、今日はいいや。今日はもう、戦うのが怖いな。次のトーナメントは早くても明日以降で」
懲りない、あきらめない奴だ。相変わらずだな、ともはや苦笑するしかない空気の中で野村は納得した。
星野がトーナメントに出馬したとして、きっとその進撃を止めるのはこういう男なのだろうと。