渡されたペットボトルに礼を返し、国村光(くにむら ひかる)は試合場のはずれに視線をやった。行き交う人のために見たいものを捕らえることはできなかったが、人の流れがそこにあるべきものにまったく注目をしていないところからそこでは何も行われていないのだということは想像できる。すごいな、と感心することしきりだった。あと二試合あるから少しでも体力と集中力を温存しておきたい自分ですらこうして心を研ぎ身体を温める必要に駆られているというのに当の対戦相手はまるで試合などないかのようにおそらく寝転がっているのだろう。さすがはこの街でもっとも年季の古い戦士だとしか表現しようがない。
「余裕ですね神足さんは。さすがというべきか・・・でもちょっと信じられませんが」
隣りに並び同じ方向を眺める若者の横顔を見て、少し講義をしてやろうかと思う。名前を呼ばれた佐藤良輔(さとう りょうすけ)に自分の腕は何キロくらいあるか知っているか、と問いかけてみた。若い戦士は面食らったようだった。
「え。気にしたことありませんけど・・・両方で5kgくらいですか?」
もちろん他人の腕の重さなど国村にわかるはずもない(相当程度確実に推測する自信はあるが)。今度、体重計に手のひらを乗せて肩の力を抜いてみるといい。それが君が武器の一部分として使える部品の大きさだ。武器、という剣呑な言葉に佐藤の顔が引き締まった。
「俺たちが敵を殴り殺すときに考えるべき要素は鉄という金属じゃない。剣という形状じゃない。刀身の重量じゃない。どれだけの質量のものを、どれだけの勢いでどこにぶつけるかだけが問題になる。その意味では剣にこだわる前に体重計に手を置いて肩の力を抜くことを練習してみるといいな。脱力の度合いが強まればそれだけ、自分では重さを感じずに扱える質量が増えるということだから」
ペットボトルを口に当て、タオルで額の汗をぬぐった。そして人間一人壊すのに核兵器は要らない、とつぶやいた。
「質量、速度、硬度、接触する面積。それらによって衝撃量は決まる。さらにどんな場所にぶつかるかによって衝撃は減殺される。それが弱ければ相手は傷もつかないし、強ければ粉砕される。衝撃の量は三峰さんでも測定不可能な激動的なものだけれど俺たちは経験で大体わかっている。これくらいなら赤鬼は死ぬが、それと同じくらいでも天狗岩は死なない、とかな」
天狗岩とは第四層で出没する二足歩行をする上に翼を持つ化け物のことだった。飛翔するだけにその身体は軽くもろいが、表皮が第四層の岩肌に酷似して岩石に見えるため、また鳥類のくちばしを思わせるその外見からも岩でできた天狗と呼ばれている。まだ第四層に達していない佐藤はそれを見たことはないが毎晩のように化け物の情報は読み込んでいる。なんといっても、第二層からでも運が悪ければ第四層に強制移動される可能性があるのだから。ともあれ天狗岩の実際は知らなかったが、それでもこの相手ならばこれで十分、という感覚は佐藤もわかるから納得できた。
「君の仲間のでかいの。津差とか言ったか」
衝撃量、という言葉でまさに想像していた巨漢の名前を言い当てられて佐藤は少し驚いた。国村は続ける。あのでかいのはイナバの物置を一人だけでも壊せそうな体格をしていることからもわかるように他の戦士たちに比べて強烈な打撃力があるだろう。それでも、それは俺が挙げた中の一つの要素でしかない。剣と腕の質量だ。
特殊な石による強化剣の品質テストを委託されている津差なので実は三つ目の要素も他の探索者より勝ってはいたが、確かにその通りだ。太刀ゆきの速さは笠置町翠(かさぎまち みどり)や精鋭部隊の戦士たちはおろか真壁啓一(まかべ けいいち)や塩崎傑(しおざき すぐる)といった第二期屈指のアウトファイターたちにも劣っていた。もっとも、津差の筋力と振るっている鉄塊にはそんな速度など沈黙してしまう説得力があったが。
「津差はいい。あれだけの体格ならば普通に経験を積むだけで俺たちよりもはるかに強くなるだろう。しかしそれは、ユニクロで洋服を買うことができないという不幸と引き換えのものであってどうしたってうらやましいことじゃない。特に、それ以上の打撃力を半分以下の体重で実現しつつある人間がいる以上は」
聞き間違いではないのか? と佐藤がいぶかしい視線を投げてきた。佐藤からすれば化け物ぞろいに見えるこの街の戦士たちだから、より小さい体格で同じだけの打撃を生み出している戦士がいてもおかしくないとはわかるだろう。しかし、国村は半分以下の体重と言ったのだ。いくら津差の巨体とはいえ体重は130kg程度だったはずだ。そしてこの街の戦士たちはほとんどが70kgを超えている。ではそれに当てはまるのは女性しかいない。
「真城さんですか?」
口をついて出たのは当然のようにこの街最強の女剣士の名前だった。国村はうなずき、それと鈴木秀美(すずき ひでみ)さんだと付け加える。鈴木さんは接触する面積をギリギリまで絞る剣術と、俺たちとは次元が違う相手の急所を見抜く能力だからまったく比較にならないが――そこで国村は懐かしそうに不精ひげの浮いたあごを撫でた。君たちは三原さんは知らなかったか? あの人もそうだったな。殴れば必ず相手が死ぬ様子は手品としか思えなかった。そういえばあの葛西が裏拳一発で昏倒したはずだ、とつぶやいて一瞬言葉を切る――どこまで話した? そう、鈴木さんは俺たちとはまったく別のルートで強いから参考にも比較にもならないが、真城さんは違う。
「訓練場で見るときは隙だらけで、確かに体重を乗せて強そうだけどそれほどとは思えないですけど。体重を乗せてがんばってようやく男たちに並んでいるという印象があります」
率直な言葉はその相手がこの街の権力者だとわかっていないかのようで、国村は苦笑した。
「いや、彼女はよくわかってる。常に重心の所在を意識してエネルギーをなるべく浪費しない飛び方や空中での体さばきを勉強している。基本の基本を教えたのは俺だが、今ではその俺も到底及ばないレベルにいる。そして今だったら、不器用な奴が2m飛び込んだだけの移動エネルギーをたった半歩のすり足で剣先にこめられるはずだ。今度稽古をつけてもらうといい。傍で見るのとは大違いだとわかるし、俺たちが津差を気にする必要はないのだと教えてくれるから」
なるほど、けど真城さんとはあまり話したことないから気が重いですが。というより女性と話すの苦手なんですよねと腕組みをした佐藤に向け胸の中で講義終わりと呟いた。そして視線を最初に見ていた方向に向け昔を思い出した。第二層に挑むために武器をなにか作ろうとしていた女剣士が自分に教えを請うて来たとき、国村は驚き疑問に思ったものだ。その頃の自分はまだどの探索者にもその優れた身体能力を見せていなかったのだから。第二層では全力を出すような敵などいなかったし、その第二層で苦労しているほかの探索者相手にはなおさらその必要がなかったからだ。それなのに娘は見抜いた。今ほどの迫力のなかった娘はしかしおぼれる者がとりあえずわらをつかんだということではなく、「移動エネルギーや身体の重量を効率的に剣先に乗せる技術を学びたい」とはっきり表現し、そのために教えを請うなら国村以外にはいないのだと言い切った。
その時はたいした眼力だと感心しただけだった。確かに全力を出していなかったとはいえ隠してもいなかったのだから見巧者ならば見抜いてもおかしくはない。剣術や運動における見巧者というイメージとはっとするほど美しい娘とのアンバランスは意外だったがそういうこともあるのだろうと思っていた。
しかしある時、探索者有数の剣士に成長した娘から本当のことを聞いた。女戦士としての進む道を迷った彼女に目指すべき戦法とその最適な師匠として国村を頼れと指示した人間がいたことを。視線を人の流れに置く。その先に寝転がっている男が立ち上がったりしないだろうかと期待を込めて。しかし風景は変わらず行き交う人々はそこに寝ている男に特別な注意を向ける様子はなかった。
自分や真城雪が苦労して身につけた体術、それを実はあの男も身につけているなどということはない。世の中はそんなにドラマチックに出来上がってはいない。体さばきのレベルは普段の動きを見れば十分に想像できた。だからこそ理解できない。
自分でも身につけることができ、それを学べば生き残る可能性が格段に上がる技術があるなら自分なら努力するだろう。しかしあの男がそれをしなかったのは何故か? それをできない理由があったのか、しない理由があったのか――自分には必要ないと見切ったのか。それは、上回る別の武器を既に身につけているということ。
前者と思いたいところだが、世の中はそのように都合よくもできていないはずだった。気が重い。