化け物め。
国村光(くにむら ひかる)の渾身の胴をやすやすとかわし反撃の小手を(かわされたものの)打ち込んでいてなお、神足燎三(こうたり りょうぞう)は背筋が冷えていくのを抑えられない。二発の木刀をかわしてのけるのは当然だとしても、倒立の姿勢から身体をねじりつつ跳躍(!)するのもまだ許せるとはいえ、そんな動きをしたら位置感覚は混乱するだろうし、およそまともに動けないはずなのにどうしてそこから一秒の遅れもなく距離を詰められるのだろう。目の前で見てもなお、人間にそんな動きが可能とはどうしても信じられなかった。
理屈はわかっている。人間の動作の基点となる胴体の動き、左右の脇を伸ばす/縮める、腰をひねる、前後にかがむ/反るというたった五種類の動きを限界まで究めることで、手足頭のどの動きにも全身を連動させ通常人とは比較にならない体さばきと動力を実現しているのが目の前の男だ。小さな切込みも全体重での突きと同じ威力を乗せ、手打ちの切り込みでもまるでライフルを肩で固定し照準を覗いたと同じ精度を実現させることができるのが目の前の男だ。駆け引きもなく激動の判断力も必要のない場だったらこの街の誰も、それこそ教官レベルでないと相手にならないだろうとわかっているつもりだった。それなのに目の前で見たその運動能力はすさまじく、信じられなかった。
それでも、と再び距離を置いた目の前の男、その気迫が満ちた一瞬に半歩重心をずらして気をくじいた。それでもこと切り合いとなれば自分の敵ではないのだ。目の前の男はようするにチェスの素人が握り締めたクイーンだった。強力な行動力と破壊力を持つからこそその力を使い惜しむ。使いどころを間違えなければ敵はいないと思ってしまうから納得できる使いどころ意外では行動を控えてしまう。国村に足りないがむしゃらさとでもいうべきものを十二分に持っていた(というよりもそれだけで優秀な戦士と呼ばれていた)若者との闘いを経て本人も深く感じたらしいからには今後は改善されていくだろうが、それでも自分との闘いという一大事にあって急場の修正はムリだったらしい。
敵ではなかったはずなのだ。苦々しく訂正した。先ほどのほんの一瞬の切り合いでわかった。弾幕をすべて乗り越え切り合いになったら自分は負けるだろう。いや、別に負けることはどうでもいいが、あっけなく負けてしまうだろうという点に問題があった。であれば、ギャラリーのためにはそれまでを盛り上げるしかない。弾幕を乗り越える姿それ自体でカタルシスを感じられるようにできれば最高だった。
背中の帆布の中に手を差し伸べた。両側から木刀を抜いているので数を重ねるほど抜きやすく投げやすくなる構造になっている。もちろん抜くまでにある程度まごつく擬態を見せ付けるのは忘れない。こういう小さな、相手が気にも留めないような小細工が見ているものの無意識に降り積もるのだとはこの街で知ったことだ。
さて、今度の壁は頼りになるぞ。だったら少し厳しいところに投げようか。
ぐ、と右手の木剣を少し持ち上げた。その小さな動きに国村が腰を落とす。おやと思った。あの目はもしや、腹を据えたか? 急所のものだけをかわしあとは痛みをこらえることで、とにかく間合いに入る覚悟を据えたのかもしれない。
もしもそうなら決勝で黒田は苦戦するかも知れんな、少しでも削っておくか。
左手が背中の木刀を一本引き抜いた。
国村の姿がコマを飛ばしたかのように大きくなった。視覚が追いつかない瞬発力で一歩踏み出したのだ。この化け物め! 肌が粟だつ。
左腕を振り切り投げた。右手は木剣を宙に放り上げた。
国村の表情は恐怖を微塵も感じさせず静謐ですらあり、しかし顔の前で一閃させた木剣は神速の木刀を頭上に弾き飛ばした。
ほう。まったくの平常心か。すごいな。どこか醒めた頭で感心する。
そして、右手の木剣を放り上げて自由になった右手で背中の木刀をつかみ放った。右手は利き腕である。当然、速く重い。
国村の顔が驚愕にゆがんだ。当たり前だ。右手は木剣にふさがれていると思い込んだからこそ、神足にたどり着くまでには一発だけ打撃を耐えればいいと推測したのだろうから。だからこそ踏み込む覚悟を搾り出せたのだろうから。驚愕の表情が苦痛に塗り替えられ、自然に左手が右胸を抑えた。突進は止まっていた。
神足はまったくためらいをみせず、左、右とさらに二本の木刀を投げる。先発はみぞおちに食い込み国村の上体が折れ曲がる。そして右の太ももにもう一本が叩き込まれた。
下降してきた木剣を神足が右手で捕まえるのと、国村の両膝が耐えかねたように地についたのは同時だった。神足は左手に木刀を構えたまま様子を一瞬うかがう。その猶予が国村を救った。木剣を口にくわえると膝立ちから回復しそのまま斜め後方に跳ぶ。あわててあとを追って放たれた木刀は狙いをはずし、秋谷佳宗(あきたに よしむね)が一振りで床に叩き落した。
「危なかった」
国村の息は荒く、目は血走っている。
「あと一発食らってたら気絶していた」
神足は肩をすくめた。
「そうか。でもあと五発ある」