心配していた太腿は骨折などしていなかったようで、国村光(くにむら ひかる)はほっと安堵のため息をもらした。さすがにぶあつい筋肉に守られているだけのことはあり、ここに比べたら右胸の方が怪我としては重いと触診を終えた今ならばわかる。それなのに試合中、右腿の痛みに気をとられたのはかつて自動車事故で骨折した箇所だからかもしれない。手術の痕は薄くなったが痛みの記憶は鮮烈に刻まれているのだろう。
さて、と国村は立ち上がった。直立の姿勢から、息を吐きながら両手を前に、そして頭上に運んでゆく。肘は伸ばしたままだ。両手が頭の真上を越え背中をそらしきってから息を吸い込んだ。肺を空気が満たすとそれを腹に、腹が満ちると喉や肩にまで満ちるように息を吸い込み続けた。吸気によって膨張した筋肉が身体じゅうから微細な痛みを伝えてきた。予想もしなかった箇所の痛みは倒れこんだ時の打撲か、緊張に力が入ったことによる筋肉痛だろう。一つ一つの場所をしっかりと覚えこむと再び息を吐きながら両手を前におろしていった。胸の高さからさらに下ろす動きにあわせて背を丸め、膝を折り曲げ、しゃがみこむように丸くなる。そして再び思い切り息を吸い込んだ。今度は先ほどとは違う箇所が痛み、それもまた覚える。同じ動きを三度繰り返してからツナギの前のジッパーを下ろした。汗でびっしょりと濡れたワイシャツを脱ぎ捨てその下のサラリーマンらしい白の肌着も脱ぎ捨てると、戦士という職業には似つかわしくない細身の身体が現れた。
革のビジネス用かばんを開け、ビニール袋を二つ取り出す。一つには『温』、一つには『冷』とマジックで記されている。中には3cm角の正方形からさまざまな大きさの湿布が詰め込まれていた。
痛みの質を思い出しながら、冷湿布と温湿布をすべての痛みの箇所に貼り付けていく。それが済むと上半身の大半は白い布地に覆われてしまった。肌着とワイシャツを身につけると今度はツナギをすべて脱ぐ。普段の探索ならば保温用の肌にぴったりフィットするタイツを身につけるがボクサーブリーフのみだった。靴下すら黒い薄い生地のものだ。そして下半身にも湿布をつけていく。
すべてが終わり再びツナギを着て、緊張感が途切れたのだろうか。そのままどさりと床板の上に大の字になった。びくりとして眺める周囲の視線を無視して大きく息を吐き出した。呼気とともに何か決意のような大事なものが抜け出ていくような気がしたが、それを不安に感じることすらできなかった。
もうやめよう。
それは試合が終わった直後から頭を占めていた選択の一つだったが、いま明らかにその方向に背中を押すものがあった。たった湿布を貼るという行為だけでわかったのだ。自分の身体はもう思い通りには動かないだろうということが。痛みを切り離せば済むというものではなく、打撲によって絶たれた神経線維とそれを修復するために動員された血小板の存在が明らかに反射速度を鈍くしていた。それに、痛みの切り離しにしてもどこか良識を信頼できなかった先ほどの相手とは違い、決勝の相手は間違っても最悪の事態をもたらすような危険な生き物ではなかった。それはありがたいことのはずだったが、その分だけ身体は非常事態だとは思ってくれないだろう。参加当初の動機はもちろん優勝の名誉だったが、試合を経ていく上で再確認した同僚たちのすごさ(すさまじさといった方がしっくりくる)が、ここまで進めたのならいいではないか、参加しただけで十分ではないかと自分を納得させつつあった。それに、賞品のうちで一番欲しかったミラコスタのチケットは――どうなることかとおもったが――手に入れたのだ。
やっぱりおなか痛いですって言って棄権しよう。これ以上痛めつけられるのはゴメンだ。この状態で勝てる相手じゃない。なんといっても相手は寝た姿勢から木刀を叩き落すほど余力があるのだから。そう決心して立ち上がったとき、革の鞄が震えた。
急に呼び戻す仕事でもできたか? それならしょうがないものな。おそらく生まれて初めて、携帯へのメールが仕事の用事であることを期待しつつ開いた液晶には恋人の名前が光っていた。
『そろそろ決勝? がんばってね。温泉楽しみです』
それを読んで座り込んだ。くずれおちたと表現した方が適切かもしれない。
「あー、温泉好きだったな」
誰にともなく呟く。普段は横浜に住んでいる恋人とは毎週末にこの街で会う習慣だったが、時間が余れば城崎や鞍馬や湯の花へと運転手を命ぜられるのが常だった。確か昼前に恋人に送ったメールには温泉旅館の宿泊券を獲ってみせると書いたはずだ。もしかしたら「絶対」という二文字も付随していたかもしれないが確認する気にはなれなかった。
男の見栄は勇気の原動力になる、とは昔読んだ時代小説に載っていた言葉だったろうか。惨めに思い出しながらごろりと横になった。少なくとも、全力を尽くさずに棄権はできないぞ、光。そう呟く。
「できないかな」
返答はどこからもない。
「できないんだろうな」
言葉の最後はため息に飲み込まれ、目を閉じた。