目を閉じたままでも周囲には気を配っており、平べったい音を上げるスリッパの足が自分をめがけてやって来ることに気づいていた。だから、来客が声をかける前に国村光(くにむら ひかる)が顔をあげたことで神田絵美(かんだ えみ)は驚いて立ちすくんだ。
「時間?」
探索者中屈指の魔法使いにして日曜大工の第一人者である彼女とは、彼女がこの街にやってきた頃から親しくしていた。年齢が近いこともあったが、『創る』うえでは欠かすことのできない醒めた客観視点を備えているので会話が楽しいということが大きい。週末探索者として価値観の中心をあくまでも街の外におく国村にとって、全てを捨ててこの街に来た純粋な探索者たちの意見にもどかしさと疎外感を抱くことはしばしばであり、しかし神田は別だったのだ。神田も国村を気にいってくれているらしく、店では売っていないニッチな小物(髭剃りを入れる皮袋や海外対応している携帯用充電器など)を快く作ってくれていた。
「まだだけど、入場の準備をしてもらいたくてね」
わざわざ? なるべく嫌そうな顔をしてみせる。一歩だって動くのは億劫なのだ。どこに連れて行かれるのか知らないが、他人を喜ばせるための入場行進は気が進まなかった。いいよ、別に、めんどくさい。
「津差さん! 移動したくないってゴネてるからこれ持っていって!」
あ、本気だ。苦笑して国村は立ち上がり、津差龍一郎(つさ りゅういちろう)のもの問う視線には苦笑いのままかぶりをふった。あー、どこへでも行くよ。行きゃいいんだろう? で、どこへ? 投げやりな言葉に神田は破顔した。そうすると童顔とあいまってまるで25〜6に見える。答えず先を歩き出した。
「どう? 勝てそう?」
「なんかもう、やる気がないよ。さすがにしんどい。寒いし」
どこへでも連れて行けとは言ったものの訓練場の外にまで導かれたことへの苦情の意味をこめ見下ろす。神田がすまなそうな顔を浮かべたのと、閉められていた通用口が内側から叩かれるのと同時だった。準備が整ったみたい。神田が嬉しそうに扉を叩き返した。最初のノックは三回、こちらが三回、そして向こうからの返答は七回ではなく九回だった。三々九度かよ、と脱力した。
「じゃあ、そこに立って!」
嬉しそうな顔に押されるように鉄の扉の前に立った。いきなりクラッカーでも食らうのだろうか? 直撃したら俺死ぬかもしれないぞ、とちらりと不安になる。そして扉が勢いよく開かれた。
ほんの数分の間でカーテンが全て閉められていたようで、訓練場の中は真っ暗だった。いったいどこから用意してきたものか舞台を照らすために使われるようなライトが自分の直前の空間を照らしていた。円形のその白さの外側、視力が追いつかない場所に人影が列を作っており、その列は試合場まで自分を導いている。何事だと思いつつも一歩を踏み出すと白い光が広がった。そして列をなす影たちの顔を見分けることができた。
神足燎三(こうたり りょうぞう)の笑顔には好意しか浮かんでいなかったが、それでも国村が一歩あとずさったのは先ほどの試合でしみついた恐怖心のためだからかもしれない。さらに深くなった笑顔になんとか踏みとどまり、恐る恐る歩みをすすめる。今度は木刀は飛んでこないだろうな、とびくびくしている自分は勝者とはとても思えなかった。そして次の人間の顔が見えた。
それは名前は知らないが、第二期の若い戦士だった。確かこちらに来て最初か次の試合かで自分が倒したはずだ。そのあたりのことはあまり覚えていない。
ぴんと心にひらめくものがあり、確認するために一歩を踏み出す。自分を中心にした白い円も同じく前進し、また顔が視界に入った。その顔とは今日は対戦していないが戦士の一人だった。
「今日、これまで倒した屍を踏み越えて決勝の二人の入場です!」
自分の列の半ばほどから聞きなれた女性の声が響いた。そうか、真城雪(ましろ ゆき)は神足に敗れたからこちらの列なのだ。見覚えのない顔たちも、自分が下した誰かに敗れたのだろう。
秋谷佳宗(あきたに よしむね)と、その背後の南沢浩太(みなみさわ こうた)の顔にも驚いた。こんな男たちより強い誰かに自分は勝ったというのか!? 一歩進む。
そして予想外の口髭にはとうとう立ち尽くしてしまった。
「星野さん! 出てたんですか!?」
出場していたならば絶対にベスト4には残っているだろうと思える顔が楽しげに自分を見つめている。
俺は――呆然として考えが続かない。
列の最後はこれまでの試合で二番目に自分を追い込んだ若い戦士だった。がんばってください、という声に自然とグローブを外し手を差し上げ、若い戦士の手のひらとぶつかって甲高い音を立てた。俺は――
試合場の中央に立ち、向かいの列の最後に達しようとしている対戦相手を見つめた。普段の黒田聡(くろだ さとし)は泰然という表現が似合う、あまり生の感情を出すことのない男だった。しかしいま、赤と青の腫れ以上にその顔は紅潮していた。彼が何を感じているのかわかる気がした。自分を満たしている思いと一緒のものだろう。これは――数年前に利益率49%の取引をまとめたときよりも巨大かもしれない感動だった。
いつのまにか痛みが全て消え去っていることに国村は気づいていた。