「降参してください、国村さん。今の俺は寸止めができません」
静謐な表情をしたままのその言葉に国村光(くにむら ひかる)は自分の敗北を悟った。うそをつける顔ではなく、であれば、うかつに動かれたら相手を殺さずにはいられない境地にまで黒田聡(くろだ さとし)は入ってしまっているのだ。それに比べて自分はどうだろう? 左手を撃ち落とされた、たったそれだけでまるまる一呼吸も黒田から注意をそらしてしまった。肝心なところで勝負に徹しきれていなかったという思いがある。
皮一枚の距離まで飛び下がってかわし、突きを戻す動きにあわせて踏み込み反撃するのだろうと思っていた。だから油断させるつもりで少しずつ射程距離を減らした。黒田がそれにだまされたと確信し、その裏をかこうと決めた先ほどの突きはこれまでで最長距離の踏み込みで、さらに背骨、肩甲骨、上腕骨をつなぐ筋肉を極限まで伸ばしきったもっとも遠くまで届いた一閃である。こちらの射程距離を短く見積もった回避では胸板を貫くだろう。勝利の確信があったのだ。
しかしそれも自分の中だけの計算だったのだ。黒田の狙いは最初から左腕に絞られていた。左腕を叩き落せれば突きが急所からそれる可能性は高く、そこで気絶さえしなければ、突きを戻さなければならない国村に有利に切りかかれる。
まさに肉を切らせて骨を断つ決断をしていたのだ。
そして自分は、左腕が撃ち落とされたときにまず左腕のことを心配してしまった。視界からまさに消滅した映像にくわえてあまりの驚きのためか左腕の感覚までもが消失してしまったこともあるだろう。国村は闘いのさなかであるにも関わらず、左腕を失ったかと恐れたのだった。細心の注意を払い鍛えに鍛え上げた身体はもはや一箇所も欠くことのできない宝物なのだから。
しかし、左腕が打ち落とされたにせよすぐに反撃の姿勢を整えるべきだった。胸元への突きは逸れてしまったがおそらく肩甲骨と上腕二頭筋をつなぐ烏口突起という急所を骨折させておりもう左腕は動かせないはずだったのだ。自分の左腕がたとえなくなっていようと、条件ならば五分にすぎなかった。しかし国村はとにかく左腕の安否を気遣い、一方の黒田は左腕など気にせずこちらへの追い討ちを考えた。その結果が降伏勧告だった。
戦意はもうなくなっていた。最後のあがきを考えることもできなかった。降参と口に出そうとして舌は踊り、しかし音がもれようとしない。黒田のいぶかしげな表情は明らかに攻撃を抑えるために努力している風情であり、迂闊に動いたら反射的に殴られるという確信があった。あわてて木剣を手放そうと右手指に力を込める。しかし危険な状態で武器を放すことをよしとしないのか、身体が命令を聞かない。なかば恐慌状態で審判に視線を送った。
「国村、降参か?」
静かな声に、黒田の圧迫感が明らかに弱まった。予感がしてもう一度声を出そうとしてみる。マイクのテストのように、あ、あ、という音が漏れたとき再び安堵を感じた。今度の安堵は言葉を失ったわけではないとわかったためのものだ。そして安堵しながらも、目の前の男も他の戦士たちもこと戦闘中だったら気にもしないのだろうな、とちらりと考えた。骨を断つために肉を切らせる覚悟は自分にはなく、切られた肉を瞬時にあきらめる潔さもじぶんにはない。それは、効率よい身体の使い方を極限の激動の中で実践するためにこの街にやってきた自分と、全てを捨て再び全てを掴むためにやってきた者との差なのかもしれない。生活の中心を街の外におく自分にはついに手に入らないものかもしれない。
「参りました」
しんと静まった会場にその言葉だけが広がり、消えた。
誰も音をたてない。
静寂の中、黒田が小さく腕をふりあげた。その控えめな喜びの姿が引き金となって喝采が巻き起こった。
拍手と祝福の中、必死の形相で左肩を抑えている男を国村は信じられない思いで眺めていた。確実に烏口突起という部位が折れているはずなのだ。上腕二頭筋は肩甲骨のもう一箇所にもついているから確かに腕を上げる動きは可能である。しかしその激痛たるや人間が耐えられるものとも思えないのに、一度とはいえ腕を持ち上げていたのだ、この男は。
そりゃ負けるよ。却ってすがすがしい気分でその場に大の字になった。