何をしたいかはもう決まっていた。そのために何をするべきかの計算ももう済んでいた。その計算式はすべて破棄し結果だけを心に刻み、そのために行動に迷いは起こさない。黒田聡(くろだ さとし)はただ彫像のように木剣を振りかぶりこ揺るぎもしない。
向かい合う国村光(くにむら ひかる)と目が合った。なぜだか彼の思考が伝わってきたような気持ちになった。しかし一瞬後にはすべてが身体を通り抜けて背後に消えていく。心のどこかで、かなり正確に看破したのだという声が聞こえた。だから計算をやりなおそうという勧誘が聞こえた。それらも聞こえただけで終わった。
それから二度の突きを跳び下がってかわした。気が満ちていくのが感じられる。自分のものも、向かい合う国村のものも。しかしするべきことは動かない。
さきほどから音が全く聞こえてこないことに気づいていた。どうしてかわからない。耳が突然聞こえなくなったのかもしれない。でもそれがなんだというのだろう。次第に目の前の男以外のものが視界から消えていった。それだってたいした問題ではなかった。ただ一つの行動だけを思い定めた。
呼気とともに国村が親指一本ぶん程度前に進んだ。ブーツのソールが床とこすれる音が鼓膜を打ったが、聴覚を喪ったわけではないのだという発見にも心は動かない。じっと視線を注いでいる。
国村の身体がほんの少しだけ大きくなった。これまで、その跳躍のあまりの速さに対応できなかった視覚はもっと大きく見えるところまで接近してからようやく移動に気づいていたのだ。この上なく感覚が研ぎ澄まされいる証だったがそれも喜びをもたらしたりはしない。
ただ、今こそ行動を起こすべきだという命令だけが全身に行き渡った。
これまでのように跳び下がったりはしなかった。腰、胸、肩、腕の筋肉が膨れ上がり木剣を振り下ろす。国村の驚愕の表情が視界に入ったがそれも単なる風景として残像も残さず通り過ぎていった。
木剣は狙い通りの場所に振り下ろされた。国村が牽制と防御のために前に出していた左手の上に振り下ろされた。予想していなかった衝撃を受けて左手がまさに撃ち落された。
必殺の突きは軌道をそらされしかし威力はそのままに、一人の男の上半身が生み出す衝撃をすべて切っ先に乗せ走る。それは両腕で木剣を振り下ろした直後の左肩に食い込んだ。反動で上半身がのけぞりそうになる。
背筋を引き絞って衝撃に耐えた。このまま吹き飛ばされることだけはないようにと。踏ん張るくらいだから自分の肩に加えられた衝撃のことは当然わかっていた。しかし、一度だけ左腕を上げようと試み、甲斐なく動かなかったことを理解した途端に左肩の存在すらも脳裏から消えてしまった。生まれた瞬間から右腕しかなかったような気分ですらある。
右腕だけで木剣を天に向け、片膝を床についている国村に対して身構えた。国村はほんの一呼吸だけ必死の視線を左腕にそそいでいたが、我に返ったようにあわてて黒田を見上げた。そこは黒田の間合いの中、注意をそらしていい場所ではなかったのだ。しかし続いての木刀を振り下ろすことなく黒田は静かに語りかけた。
「降参してください、国村さん。今の俺は寸止めができません」