言葉をかき消したものは、常日頃喧騒に満ちたこの場所であっても珍しいものだった。拍手と喝采である。その意外さに思わず中村嘉穂(なかむら かほ)は振り向いた。見ると、一角でよく見かける女探索者がなにやら声を張り上げている。名前だろうか? 誰かを呼んだのだろうか? その直後に進み出た頑強な探索者がなじみの研究者から何かを拝領していた。
振り向いて、ガッツポーズ。そしてまた拍手と喝采だった。なんのお祭りなのあれは? 見上げた視線の先で蝶タイをした男が首をかしげた。
「今日、チャンバラ大会があったんですよ!」
正解を教えてくれた娘の顔は紅潮していた。ほんの一瞬前までここにあった眉を下げての悩み顔はどこに行ったのだろうか。苦笑を押し殺してチャンバラ? と聞き返す。
「そりゃ、惜しいものを見逃したな」
三人がいるのは北酒場と呼ばれる飲食施設にしつらえられたバーカウンターだった。中村とその隣りの娘である織田彩(おりた あや)は客であり、スツールに腰掛けた彼らを見下ろす小川肇(おがわ はじめ)はカウンターの内部で飲み物を供する役を担っていた。
すっごい燃えましたよ小川さん! 織田は嬉しそうだ。大学をさぼった甲斐がありました!
チャンバラねえ。興味を失ったようにつぶやいてカウンターに向き直った。
「もうこの街に来て結構なるけど、未だにあの連中の考えることはわからないわね」
「彼らはいわば英雄だからな」
英雄? と鸚鵡返しの言葉は織田がもらしたものだった。その理由が中村にはわかるような気がする。織田は唯一のコンビニのアルバイトとしてこの街ができた時から働いている。『いちごオレ』や『かにパン』や『少年ジャンプ』や『ビスコ』を差し出し買っていく存在が彼女にとっての探索者なのだ。薬局に勤務する自分にとって探索者とは筋肉痛や花粉症や風邪や妊娠の恐怖にさいなまされている存在であるように、そこには英雄らしさというものは断片すら感じられないのだろう。
「まあ、アルコールが入って勇ましくなっているところしか見ていない肇にとっては英雄かも知れないけどねえ」
織田の表情にも同意の光がある。しかし小川は苦笑して、そうじゃない、と否定した。
「昔からの物語を読んでいると英語ではヒーロー、日本語では英雄と呼ばれる存在がある時期を境にがらりと変わることに気づく」
また始まった、と中村はうんざりした思いでカクテルグラスを口につけた。このバーテンは決して悪い人間ではないが、この街に来るまでの本業がものかきであることも影響しているのだろうか、話しているとしばしば講釈が始まることがあった。年齢の離れた織田にとってはそれもありがたく感じられるらしいが同年代の彼女からすると何をしゃらくさい、としか思えない。中村はこれまでそれなりの男性遍歴を経てきたが、部屋に大きな本棚がある男にろくな奴はいないというのが持論だった。そして目の前の男の部屋の本棚はこれまでの誰よりも大きく頑丈だったのだ。
「ある時期、というのは都市文化がその民族に定着した頃だ。都市文化を成立させるためには個人の感情よりも共同体の道徳を優先させる必要が出てくる。都市文明以前の自分のためだけを考え行動し、そのためスケールの大きかった英雄たちは都市に飼いならされることによって自分以外の価値観に従うようになる」
たとえば儒教、公共への貢献、宗教、フェミニズムといったものだな。その例に織田は頷いた。
最後のしずくを飲み干した。普段ならばこちらの顔をうかがうだけで差し出される次の杯が出てこない。くるりとスツールを回転させて騒がしい探索者の群れを眺めた。その視線に沿うように、彼らは、と低い声は続く。まだ続く。
「彼らの価値観の最上にあるものは戦闘において勝利することで、ついで地下からの獲得を積み上げることが続く。社会道徳も法律もその前にはかすむほど小さい。彼らにとって探索者と英雄という言葉は同意語であり、探索者の行動の主要テーマは二つの基調――武勇と名誉――のうえに築かれている。前者は英雄の本質的属性であり、後者は本質的目的だ。彼らの価値観、判断、行為、技量や才能といったもの全てに名誉を明示できるかどうかのフィルタが常にかけられる。彼らのほとんどは行動、感情ともに情熱的で人生を愛し、そこには自分が納得しない価値への殉教者的な性格などは存在しない。にも関わらず、彼らの話を聞いている限りでは信じる価値観はその生命よりも優先されるらしい」
これが英雄でなくてなんだろう? そして、チャンバラのトーナメントより彼らにふさわしい祭りなどなかなかないさ。酔ったような言葉は一息ついたらしい。ちらりと隣りの娘を盗み見たが、半分納得で半分理解不可能という顔をしていた。潮時か、とくるりとまた回転した。
「肇、今度はビールベースで」
こちらの冷静な言葉に急に現実に引き戻されたのだろうか? かすかに顔に朱をさしながら小川は首をかしげ問いかけるように小さく目を見開いた。
「ビールにジンジャーリキュールを少し入れて頂戴」
小川は苦笑した。ビールベースにジンジャーリキュールのカクテルは通称をストーンヘッドという。揶揄に気づいたのだろう。
「あ、そういえば」
もういちどくるりと振り向いて人影を探した。
「あのでっかいの来たよ、今日。栄養剤探しに来てた。温泉は好きかって訊かれたな」
「え? 一位の賞品が確か温泉旅行でしたよ。それって――」
棚の瓶の一つを手に取って軽く振る背中から低い声が漏れた。
「ほう。で、なんと答えた?」
別に、と表情を変えずに心の中では含み笑いをしている。
「温泉は大好きだから誘われればいつだってホイホイついてくって言ったわよ」
「ほう」
声は先ほどよりも低い。中村はなんとなくいい気分になってチョコレートを口に入れた。