「ええ? いいよ別に」
従兄の断りの言葉を笠置町葵(かさぎまち あおい)は意外に思った。双子の姉の笠置町翠(かさぎまち みどり)があげようとしたのはたかが遊園地のフリーパス券であり、2枚で1万円だとかそこらのものだったはずだ。それは数日前に従兄とその婚約者が行こうとしていた場所で、突然行かれなくなった婚約者の代わりに姉が一緒に遊びに行った場所である。だからもののやり取りとしてもイーブンだったし、加えて姉の手にあるチケットは本日行われたトーナメントのべスト8の賞品である。金を払ってあがなったものでもないのだ。従兄にとってはとりたてて喜ぶほどのものでもなく、したがって断る理由もないと思っていたのだが。
なんで孝樹兄ちゃんが決めちゃうのさ。翠は苦笑して食い下がった。
「私を連れて行くようにって言ってくれたのは由美さんなんでしょう? 私も由美さんにお礼するおまけの孝樹兄ちゃんなんだからさ、とりあえず受け取っていおいてよ」
でもなあ、とまだ渋る。数秒たって、言い出しにくそうに呟いた。
「真壁くんが行きたがってるんじゃないのか? 翠ちゃんと」
姉は虚を突かれた顔をした。
「いや、真壁さんは行かないわよ。だってあの人来週で――」
「なに? 兄ちゃん真壁さんにびびってたの?」
あわてて言葉をかぶせる。自分が危うく口を滑らせるところだったと悟ったのか、視界の端で姉が感謝の視線を送ってきていた。この従兄は真壁啓一(まかべ けいいち)という名の若者と姉が交際していると思い込んでいる。どうしてそう思い込んだのか、どうしてその勘違いを矯正しなかったのかは事情があり、ここで真壁がこの街を去ると告げてしまったら、最悪の事態では従兄にその事情を話さなければならなかった。せっかく(たくさんの人間の気遣いの結果)事情は円満に昇華されるところなのに、いらぬ手間を自分から呼び出すべきではなかった。
水上は笑った。苦笑いといってもいい。従妹たちの目配せにはまったく気づいていないようだ。そりゃそうだ、と葵は別に不思議には思わなかった。従兄は武人として自分たちとは比べ物にならない存在だったが、それは臨戦態勢にあってのことだ。妹とも思っている二人の挙動を注視するはずもなかった。そう。気を許した人間の態度はあまり気にならなくなってしまうものだ。
似てるわー、と従兄と姉とを見比べた。自分は恋人に気を許しているが、それでもここまで鈍感にはなれない。
「なんかさ、君らがこっちに来たときから真壁くんの意識がビンビン伝わってくるんだけど。彼、USJに執着があるんじゃないのか」
え? と翠が振り返って店内の一隅を眺めた。いつものバカヅラしかしてないけど。
「いや、かなり気を張ってるぞ。本当に気づかないのか? 葵ちゃんも?」
葵も一瞬考えて頷いた。それが妥当な回答だと思ったからだ。とにかく! と翠が封筒を水上の手に押し付けた。
「私たちはいらないから、これは由美さんと相談して兄ちゃんが捨ててください。ほらほら! 今日中に東京に帰るんでしょう?」
「――ああ、チケットはわかった」
水上の顔は真剣だった。
「チケットはわかったけど、あの真壁くんの気を感じ取れないんだったらちょっとこれ以上潜るのは考えた方がいいんじゃないか? 鈍すぎるぞ、お前ら。二人がまだまだ未熟だということを差し引いてもちょっと隆盛さんの子供とは思えない」
アルコールだよ、と一言で切り捨て葵は従兄の背中を押した。俺また明日の夜に来るから、その時ちょっと試させろ! 言い募る背中を強引にガラスの押し扉から突き飛ばした。
ふう、と息をつく。恋人とは違い毎日鉄の棒を振ったり止めたりしているだけのことはある。その身体は肉厚で重く、押し出しも一仕事だった。ねえ、という声に視線を上げると姉が少しこわばった顔をしていた。
「今の孝樹兄ちゃんの言葉だけど、私たち鈍いのかな」
あー大丈夫大丈夫。面倒になってひらひらと手を振りながら席に戻った。肩から下ろしてみて初めて、双子の姉の片思いは自分にとっても重荷だったのだと気がついていた。私には痛いほど伝わってたし、翠も他の条件なら寝てても目が覚めたはずだよ。
条件? いぶかしげな顔に返事はせずに、不在中に届いていたらしい麻婆豆腐を掬い取った。
本当に似てるわ、アンタたち。心の中で呟く。
孝樹兄ちゃんが翠の片思いに気づかなかったことも、翠が真壁さんにずっと気を配ってもらってたのにまったく気づかなかったことも。
ちらりと視線を送る。もう『条件』はどうでもよくなったのか、嬉しそうな顔で麻婆豆腐に挑んでいた。