隣りに座ってきた男に向けて、屈託のない笑顔がすんなり出てくる自分に葛西紀彦(かさい のりひこ)は驚いていた。別に嫌っていたというわけではない。もともとそれほど近しくする関係でもなくなんとなしのよそよそしさがあっただけだ。自分自身に対して社交的ではないという自覚があったから、そんな距離の人間に対して即座に心からの笑顔が出ることが意外だった。
あれか? お互い全力を尽くしたあとだからか? 夕暮れの土手で学ラン着て大の字になって「お前強いなー」とか言っているようなものだろうか? そうじゃない、という気がした。目の前の整った顔立ちをした男にはこちら側の遠慮や気後れを気にせず踏み込んでくるだけの明るさと自信が感じられる。それがこちらの警戒心を無用のものだと教えてくれるのだ。こりゃもてるわけだ、と実感した。
「おめでとうございました黒田さん。俺も優勝者に負けたんだ、ってことで鼻が高いです」
黒田聡(くろだ さとし)は一つうなずくとテーブルの上のピッチャーから葛西のジョッキにビールを注いだ。
「俺も葛西くんに勝ったんだ、って鼻が高いよ」
返杯として誰のものともわからないジョッキにビールを満たしながら、またまた、とつぶやいた。
軽くジョッキをぶつけ、口につける。アルコールを流し込みながら横目で伺っていたが優勝した男はなかなか口を離す様子がなかった。喉仏は間断なく動き、とうとう泡だけがこびりついたジョッキがそっと卓に置かれた。弱点なしかこの男、と呆れながら見つめる。
「そういえば」
ふと思い出して葛西は口を開いた。
「すごかったですね、あのパンチ」
黒田は怪訝な表情を浮かべた。
「君を殴ったあれか? ぜんぜん効いている手ごたえがなかったんだけど」
いやそれじゃなくて。葛西は訂正した。決勝戦の入場で津差さんを一発でうずくまらせたじゃないですか。
ああ、あれかと黒田は口の端をあげた。
「神足さんの木刀が刺さったところそのまま殴ったからね。治療術は使ってないだろうって予想していたけど、案の定一発でダウンした。まあこけおどしにはなっただろ」
種明かしに感心した。試合場のすぐそばに転がっていた黒田は死体と見まごう有様だったけれど、それでも津差の巨体のどこに木刀が突き刺さったか寸分たがわず覚えていたのだ。なんで自分はいい勝負ができたんだろう。改めてその思いがわきあがってきた。
君と試合して、と黒田が口を開いた。
「さゆりのことを思い出したよ」
ふと眉をひそめた。その視線はテーブルの上で湯気を立てる鍋に向かっていた。エビやら白菜やら豆腐やらが赤いキムチ味の汁で煮込まれていた。おタマを片手に鍋を覗き込み、作戦を立てているらしい。
「奇遇ですね。俺もです」
もう三ヶ月くらいになるのにな。思い出したことに驚いたし、それよりも忘れていたことに驚いたよ。
まじまじと顔を見つめてしまった。冗談を言っているようには思えなかったし、そもそも不謹慎な冗談を言っていい状況ではなかったからには本心なのだろうか? 彼と目の前の男と話題に上っている女との間には、古今東西の恋愛譚で使い古されたような経緯があったのは事実だ。しかし女性関係において勇名をはせるその男には小さなことだと推測していたのだ。忘れて当然のものだろうと思っていたのだ。意外ですね、という思わずもれたつぶやきに視線が向けられた。黒田は苦笑していた。
「俺がどういう風に見えるかはわかっているつもりだけど、うん、いろいろあるよ。人間関係は」
そういうものかもしれない。ともあれいまになって蒸し返す問題ではないのだろう。なんといってもその女性はもうこの世にいないのだから。
「葛西くん、料理人上がりだって? 葛西くんの鍋がおいしいんだってさゆりが言ってたのを思い出した。俺らにも振舞ってくれよ」
いいですね、と笑顔を浮かべる。真城さんのところに押しかけてやりましょうか? そうそう、と黒田はもう一度視線をこちらに向けて頷き、目元にエビの殻からはねたしぶきが飛んだ。辛味に満ちた汁に目をやられたのだろうか、うめき声を上げながら目をこする姿に思わず吹き出した。
「そうだ。黒田さん、今度から稽古つけてくださいよ。結局切り合いじゃ相手にならなかったわけだし」
「断る!」
何を言われたのかわからず、葛西は美男子の顔を覗き込んだ。さっきまでの和やかな空気はどこに行ったのだろう。ずっと日本語で会話していたのに、いきなり他の国に紛れ込んだのだろうか?
「いや稽古ぐらいいいでしょ。今までの友好的な空気を読みましょうよ」
「コトワルッ!」
言葉がいびつに響くほどかたくなだった。途方にくれて視線を移したら話を聞いていたのか、サラブレッドの女剣士が深く頷いていた。わけがわからない。