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迷宮街の中心はなんといっても中央を東西南北に走る大通りだ。二車線通りのそれは東西南北にそれぞれ三キロほどで中央で交差している。迷宮街の外からそこに入るのは西口しかなく、入るには身分証明書のチェックが、出るには荷物の検査が必要なのでそこでは常に渋滞がおきていた。普段なら気にならないそれにも津差龍一郎(つさ りゅういちろう)はうんざりする思いだった。原因は助手席と後部座席に乗っていた。
助手席に座る男が津差の部隊の魔法使い、内藤海(ないとう うみ)で、後部座席にいるのがその妹の内藤陸(ないとう りく)である。この二人、先刻金閣寺で派手な口論をして以来口をきいていなかった。津差は面倒見のいいほうだったからなんとか気分をほぐそうと二人に話をふるのだが、まだ二十歳前の兄妹はそんな津差の気持ちを無視してむっつりと黙り込んでいた。
朝の八時に出発し、とりあえず鞍馬温泉で雄大鞍馬山を眺めつつ湯につかって一息入れた。昨日は京都南部だったから、今日は北部だった。平安神宮、青蓮院、昼食は嵯峨野で湯葉料理、金閣寺でしめだ。陸は楽しそうにいちいちおみくじを引いていたし、それを眺める兄もうれしそうだった。津差も運転手の甲斐有りと満足していたのだが――ひとたび話題が発火点に触れたらもう止まらなかった。発火点とは、いつ頃まで大迷宮で探索を続けるのかという問いだ。兄を慕っている妹としては本心では危険なことをしてもらいたくはないし、裕福な(単なる大学生に過ぎない陸の持ち物や、兄妹のしぐさなどから津差はそう推測していた)家庭に生まれておいてどうして・・・という釈然としない思いもあるのだろう。言葉には心からの思いやり、そして親しい人間を失うかもしれないという恐怖感がこもり、それが本来なら年長者としてなだめなければならなかった津差を金縛りにした。
切々と語られる妹の言葉にかたくなになった気持ちは津差にもよくわかる。自分たちの目の前に高確率の死がある以上、それを避けずにこの街に残る理由は二つしかない。自分だけは死なない、か死を覚悟しているかだ。たった二度迷宮に潜っただけでも死なないとは考えられなくなっていた。しかし後者は親しい人の「生きていてほしい」という思いを拒絶することになってしまう。
ゆうべ、津差がその二択を選んだ相手はどんなに親しくても血縁ではなかった。だから断腸の思いではあっても「自分のことは忘れてくれ」という言葉を告げることができた。しかし家族は違う。血のつながりは否定できず、縁を切ることで思いを切り捨てることはできない。
「俺がここに来たのは新しい世界を見たかったからだよ」
内藤がぽつりと呟いた。
「死にたいからでも強くなりたいからでも金を稼ぎたいからでもないんだ。穏やかな生活では得られないものがあると思ったからここにやってきて、今のところ目に映るものすべてに満足している」
声の調子でわかるのだろうか。妹はじっと耳を傾けていた。
「二日もぐってわかったが、第一層にいたら仲間に恵まれて慎重な行動をすれば、命に危険はないんだ。そして、本当に危険な場所まで下りるようになる前に――津差さんには悪いけれど――俺は抜けようと思う」
「・・・本当に?」
「ああ、約束する」
力強い答えにほっとした空気が車内に流れた。ふと視線を左側の歩道に移すと見慣れた後姿があった。原色に近いツナギの集団が立ち話をしている。迷宮街広しといえども他に類を見ない色とりどりの一群である。おお、とあげた声に助手席の内藤も気づいた。
笠置町軍団ですね」
「ああ。無事に帰ってきたらしい」
「陸。あそこにいるのが俺たちと同じ時期に来た探索者だ。今日一仕事終えて帰ってきたところみたいだ。見てごらん、ぴんぴんしてるから」
後部座席の妹が左側に場所を移す。迷宮街中央に位置するロータリーに少しだけ進入し、彼らに一番近くなるように車を止めた。窓を開けて身を乗り出した内藤が声をかける。
その声に振り向いたのは明るい青のツナギを身につけた笠置町葵(かさぎまち あおい)だった。普段は元気のいいなその顔は固くこわばっている。その顔がぱっと輝いたかと思うとよかった! と他の仲間を振り返った。
「津差さんと海くんだよ! 病院まで運んでもらおう!」
病院? 何事? と混乱しながらも、勢いに押されるように陸が後部ドアを開けて場所を作った。そこに入り込んでくるのは、どす黒い地下の化け物の返り血ではなく、赤い自分の血で顔を汚した真壁啓一(まかべ けいいち)だった。彼を真中まで押し込んで、葵の姉の笠置町翠(かさぎまち みどり)も乗り込んでくる。
「すいません津差さん! 病院まで!」
「あ、ああ」
反論を許さないその言葉に気おされて、車を再発進させてロータリーの流れに乗る。何事ですか? という内藤の問いに、真壁が頭を打って嘔吐、昏倒したので念のため検査を受けさせるのだと答えが返ってきた。バックミラーに映る真壁の顔はぐったりとして生気が感じられない。それまで歩いていたし意識はあるようだが、充分危険な状態に見えた。
南北通りを北に走るようにロータリーを抜けるとき、確認のために覗き込んだサイドミラーに後部座席の陸の顔が映った。彼らが乗り込んでから一言も発していなかったので存在を忘れていたのだ。彼女は突然やってきた怪我人に呆然としていた。その顔は真壁よりもさらに生気がない。血で汚れた真壁の顔に誰を重ね合わせているのか手にとるように想像できた。
ええい、愚図が!
自分か、啓一か、誰をののしったのかはわからない。アクセルを踏み込んだ。