19:18

夕食前の来客はセールスなどではなかったようで母の嬉しそうな声が聞こえてきた。軽い足音に続いてドアをノックする音がする。さすがに一昨日までここにいただけのことはある、勝手知ったるなんとやらだわと思いながらどうぞと声をかけた。
ドアを開けて入ってきた神野由加里(じんの ゆかり)の顔を見て、木村ことは(きむら ことは)はよく似た別人かと思った。
華が咲いた、という表現がふさわしいだろうか。小柄で少しぽっちゃりした身体つきも穏やかにウエーブさせた髪も化粧けのない指先も変わらない。それでも見違えるように生気に満ちていた。つい先日家に泊めていた時には今にも手首を切りそうなほど沈うつだった娘がえらい変わりようである。
「さては、真壁くんと会った?」
嬉しそうにうなずく。そして「昨日から今日のお昼までずっと喧嘩してました」と。
言葉の内容とは裏腹にすっきりした笑顔だった。なんとなくわかる。真壁と由加里の関係を端から見ているとほほえましいのだが、危ういと思う瞬間もたびたびあった。惚れた弱みだったのだろうか、真壁は常に腫れ物に触るように恋人を扱い、女はもちろん居心地よくその愛情を受けながらもどこかしらに不安が残る、といったように。なまじ豪華な砂の城を作ってしまったために、壊す波を避けようと必死に堤防を作りつづける子どもたちを見ているような苛立ちを感じたものだ。おそらく喧嘩などしたくてもできなかっただろう。
いい傾向だと思う。二人とは対照的に彼女には繊細な恋の思い出などない。泣き、笑い、殴り合い、関係が終わるときは大概「相手を殺すか、別れるか」の二択に達するまでじたばたと暴れてきた。自分がしてきた挫折と怒りの道と毎日が蜜月の二人を見比べてみれば、「まだ若いんだから泥はねあげて恋愛しなさいよ」と常々思う二才年長の女だった。
お昼に東京駅で真壁を見送り、(「卒論終了後にまた再戦することを誓いました」と満面の笑顔で由加里は付け加えた)何かやらないといられない、と強烈な活力に押されて大学図書館へ行ったらしい。「もう卒論は書きあげたんですけど、もう一段深めて別件を書いてみようかと思って」という言葉に思わず「書き上げたやつちょうだいよ」と言いそうになった。
窓の外がすっかり暗くなった頃、世話になった人間に報告は欠かせないと気づいて図書館を出、ここにやってきたのだそうだ。最後まで元気のない顔を見せて心配させていた彼女の母親を安心させたいという思いもあったのだろう。
「え? 卒論終了後? 真壁くんまだ続けるの?」
もう足を洗い、京都には荷物を回収するために行ったのではないのか、と訊いた。由加里はうなずいた。まだまだいろいろなものを見たいのだという。
「で、このことについては?」
画面を示す。そこには先日までのびっしりした日記とは違った簡潔な文章が書かれていた。

 関係者のプライバシーを守るために当分の間非公開にします。俺が引退することで終了した後、関係者に読んでもらって承諾がされたら公開するつもりです。
 本日は11月20日。俺はまだ元気です。
「ああ、それですか? みんなが笠置町さんのことをまるでよく知っている友達みたいに接しているのを見て、自分のやってることの意味を悟ったみたいです。実名を全世界に公開しちゃまずいですよね。かといっていまさら仮名もないし、ということで非公開にしたらしいです。私は読めるんですけど」
なるほどね、と窓を小さく開けた。そしてタバコに火をつける。それにしても、由加里と正面から向き合うことができるようになった今にしてなお迷宮街に戻るという判断が意外だった。彼が迷宮街に行った理由、どうしても超えたかったものは目の前の娘への劣等感だと思っていたから。それを果たした今になっても、明日死ぬかもしれない環境になにを求めるのか。
仲間への義理や責任感ではない。昨日、東京ディズニーシーで彼の京都での仲間が発した言葉を思い出した。笠置町翠(かさぎまち みどり)という名の端正な顔をした娘は真壁のことを「あれほどの才能はめずらしい」と評したのだ。彼女は「才能とは技術でも腕力でも体力でもなくて」、と慌てて付け加えた。
「私は父親に言われて行ったんですけど、強くなって来いって言われたんじゃないんですよね。人間にはどうしても行けない境界、超えられない壁が存在するから、それを見定めて来いっていわれたんです。 限界に出会ったときに気づく嗅覚を身につけて来いって。そういう危険を察知する能力に関していえば真壁さんは誰よりもすぐれていると思いますし、あの人は平気で名よりも実を取るから逃げ出すことも抵抗ないと思いますから」
ゼミの仲間として三年間を過ごした女性たちは一様に頷いたものだ。確かに、かなわない相手に特攻する真壁啓一はどうしても想像できなかった。
その彼が、迷宮街に戻る。危険と秤にかけて見合うだけの何かがまだ京都にあるということだった。母親が差し入れてくれたティーポットから二人分の紅茶を注いでいる娘をちらりと盗み見た。中国料理屋でまだかたくなだった真壁啓一を、男どもが変えられるとは想像しがたかった。役者不足というのではなく、二木克巳(にき かつみ)がすっかり自制を失っていたあの状況で落ち着いて考えられるとは思えなかったのだ。誰が彼のかたくなな心をほぐし、由加里と和解するように仕向けたのか。その巨大な影響力。
もちろん、人間はほんの些細なことで変わり成長するものだ。しかしもしも自力で変わったのでなければ――状況から、ことはは自発的な変化ではないと確信していた――他に考えられない。
あの娘だった。陽気で善良で強く素直で美しく声もよい、およそ非のうちどころのない娘。
ふっと真壁の表情を思い出した。料理屋で翠からの電話が入ったとき、電波の向こうの彼女の様子がおかしいことに気づいた表情を。席の関係でことはにしか見えなかったそれは、どうあっても目の前の娘には見せてはならない種類のものではなかったか。
はい、と両手を添えて差し出された紅茶の皿を受け取り考えを振り払った。外野が騒いでもいいことはないし、どんな関係にも必ず結果は訪れるものだ。よしあしに関係なく、それをどうやって受け止めるかが大切なのだ。二人は今回最高に近い受け止め方をした。今はそれだけで満足すべきだろう。手を伸ばして由加里の頭に置く。怪訝な顔にかまわずゆっくりと髪の毛をなでた。
小柄な娘はされるままになっている。