東京には月〜水といるつもりだった。金曜日に潜る予定を立てていたから木曜日、つまり今日一日をかけて体調を整えるつもりだったのだ。しかし少々予定が崩れ、迷宮街に戻ってきたのは今日の午後三時になってしまった。一日延期してもらおうかとも考えたが、身体は決してなまっていなかったし、何よりやる気に満ちていたから午後だけで仕上げることにした。
いつも訓練は午前中から始めて遅くとも午後三時にはあがっているのでこの時間に訓練場にいることは珍しい。面子もがらりと変わっていた。見知ったあたりでは神崎圭介(かんざき けいすけ)さんがいた。驚いたのだが、この背は高いけれど細身の男性は後衛ではなく戦士だったのだ。それも、非常に優れた。第二期募集の戦士にここまでやられたのは、笠置町翠(かさぎまち みどり)を別格とするなら初めてのことだった。
なんというか、太刀筋が微妙にいやらしいのだ。比較的ゆったりとすらいえる斬撃が送られてくる。剣線を想像して弾き返そうとして木剣を動かす。ところがほんの少しだけ足りないのだ。実際に弾き返せるし受け止められるのだが、その結果予想以上に体勢を崩されてしまう。続いて同じような斬撃が来て、これまた受け止められると思ってしまう。実際に受け止められる。しかし体勢は大きく崩れている。そこで、翠にも引けを取らないような鋭い一撃が肩を打つのだった。袈裟懸け。真剣だったら一刀で絶命しているだろう。
三度やってあきらめて、フットワークを使ってかわすようにしてからはいい勝負になったが、足を止めて剣を使う限りついに勝てなかった。たっぷり30分ほど打ち合って、休憩をはさんだ時に何がどうなっているのかわからないと素直に訊いてみた。彼の返答を俺なりに整理すると、以下のようになる。
人間は関節を中心に骨と筋肉で動いており、おのずと動く範囲が限られるし身体の柔軟性によってそれはさらに制限される。彼の目には、相手の各関節が動く範囲が見えるのだそうだ。そしてその範囲のほんの外側に、弾き返したくなるような(相手の剣を弾き飛ばせば体勢を崩せるので、俺たちはできる限りそれを狙う傾向がある)一撃を送る。しかし頭では弾き返せると思うその剣筋が実は相手の関節の許容範囲外のものなので、大概は思った通りには対応できない。頭ではできると思うのに身体がうまく動かない経験は誰でもあるだろう。俺は、あれを訓練中ずっと味わわせられつづけたのだった。
すごい技術だと感心したら、タネ明かしをした以上次はうまくいかないだろうと言っていた。その言葉どおりに次の30分はこちらが優勢だった。今度は距離をおいてフットワーク主体のいわゆるボクサータイプの戦い方をしたからだ。念のために付け加えるなら、次の30分は当然俺のボロ負けだった。それだけの時間足を使って動き回って木剣を振り回して平気でいられるような体力はまだない。要するにバテたのだ。
北酒場では笠置町姉妹が待っていた。「あのまま戻ってこないと思ったけど」という翠の表情は心配げ。きちんと仲直りしたのか? という問いに思い切り喧嘩して喧嘩して、言いたいことを全部吐き出してきた、第二ラウンドは京都観光をしながらだ、と言ったら嬉しそうに笑ってくれた。本当にいい奴だと思う。彼女に東京で何があったのか、ここではもう何も窺えなかったけれど、何かはあったのだろう。いつか相談に乗ってやれるといいけれど。
現在は午後十時になる。これからモルグに戻り、充分に身体をほぐすつもりだ。明日は初めて第二層に挑戦するのだが、不安がないくらいには整えることができた。
そうそう。今日から日記を非公開にした。東京で友人たちと翠を顔合わせしたとき、みんなが年来の旧友のように翠を受け入れたことにいまさら驚いたからだ。今回は双方にいい結果だったけど、自分はそれだけの情報を発信しているんだということは考えないといけない。ただでさえ迷宮街に来るような人たちだから、各人いろいろあるだろう。実名をだしちゃいけないし、仮名は管理が面倒くさい。ここを抜けるときに公開することにしよう。