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自動ドアからこぼれてきた空気は暖かく、巴麻美(ともえ あさみ)はほっと息をついた。ここ数日というもの関東地方には寒冷前線が停滞しており、少しおおげさかと思った冬物のコートも内側がニットのノースリーブのセーターでは少し物足りないくらいだったのだ。着替えに戻ろうかとも思ったが、彼女の恋人は時間にはうるさい。怒ることはない。怒ることはないのだが、世の中には時間の約束を重大事だと思う種類の人間がおり、遅刻は相手に対する敬意の欠如だと真剣に信じて遅刻されたことで傷ついてしまう人間もいるのだった。そのあたりは非常に鷹揚な麻美としては理解しがたいが、「相手がそういうのなら、気をつけないとな」と合わせる分別くらいは27年の人生で身につけている。
「おまたっせい」
先着して待っていた恋人にはめずらしく、本も広げずに考え込んでいた。その人相を見て思わず苦笑する。麻美に気づいてあげられた表情にしかめ面を作ってやった。
「ほら、笑顔笑顔」
その言葉に恋人――後藤誠司(ごとう せいじ)は苦笑してから意識して目元を引き下げ、口元をほころばせた。うん、と教師の表情でうなずく。
笑顔を強要するのにはわけがあった。後藤は醜かったからだ。いや、醜い、と一言で切って捨てるなら御幣があるかもしれない。決して一つ一つのパーツはおかしくはないし、たるみやくすみに不摂生が現れているわけではない。細い目、小さい鼻、広がった口、がっしりした顎はそれだけならどこにでもあるものだ。しかしそれが集まると――醜いというより怖い。まだ35歳にもなっていないのにもう不安になってきた頭部をカバーするため短く刈っている頭髪とあいまって、大変に酷薄な印象を作り上げていた。白いスーツや芥子色のネクタイをつけたらヤクザも道をあけるかもしれない。
麻美が惹かれたのはその凶相ともいえる容貌が彼女の好みである『醜くてセクシー』をずばり貫いたからだし、第一印象が最悪に近いだけに内面の誠実さ、律儀さ、聡明さで却って好かれる場合もある。しかしそれはやはり少数事例だったから少しでも被害の少ない笑顔を浮かべているように指導していた。
「どうしたの? 今日は出張帰りでゆっくり休みたいって言ってなかった?」
「うん。実は辞令が出そうだ」
休みたいところをわざわざ呼び出すのだから、後藤一人では決めかねる範囲の問題なのだろう。それでいてまったくよどみもためらいもなくさらっと言うところにこの男の性格が現れていると思う。言葉によどみがない、というのがこの男に対して誰しもが抱く印象だった。それでいて何も考えず脊髄でしゃべっている人間の軽薄さは感じられず、言葉の一つ一つに重みがある。そのあたりに知能の高さを感じるのだった。もっともその重みには彼の面相も大部分影響しているのだろうが。
「辞令? どこに?」
二人は同じ職場に勤めている。日本有数の商社だった。一般職の事務である麻美とは違い総合職である後藤には当然のこととして転勤の運命が課せられている。意外な話ではなかった。そして、企業の転勤命令に対する拒否権を社員は――建前はともかく――持っていない以上、わざわざ休日に呼び出して相談することとも思えない。明日も休みなのだし、別に明後日以降の仕事があけてから話せばいいだけのことなのに。
「迷宮街」
「めいきゅうがい? そんな支店――迷宮街? あの?」
あの、と言ったものの麻美の脳裏にはどんなイメージも浮かばなかった。なんだかそういうものがあるらしい、人が沢山(わざわざ自分から)訪れては死んでいるらしい。表現するなら『社会的意義のない戦場カメラマン』が集まる場所かと思っていた。
「え? 冒険するの?」
いや、と首を振った。話によると、彼らの勤める商社がその迷宮探索の成果を独占して買い上げているそうなのだが、独占している割には利益率が低い、と株主たちから指摘を受けたのだそうだ。そこで前任の買い付け担当の替わりに気鋭の営業として頭角をあらわし始めていた後藤に白羽の矢が立ったのだった。
「なにしろヤクザみたいな連中と取引をしなければならない、ということでよほどの覚悟が要求されるし、独占権をよそにとっていかれたりしたら大問題になる。自信がなければ断ってもいい、と田垣専務から事前に相談された。俺は俺のできることをやるだけだが、拒否権があるのだから麻美にも相談したい――結婚してくれないか」
「え?」
結婚? そんな単語が自分の目の前に出てくるとは思わなかった。反射的にそんなのいやだよ、と言おうと口を開くより前に恋人が言葉を継いだ。
「一緒に来てほしい。急なので指輪も用意してないんだが。ごめん。頼む」
ぺこりと頭を下げる。表情は見えないが耳たぶは真っ赤になっていた。呆然としながらその耳たぶを見つめて、おそらく笑顔も作る余裕のない顔はどんな怖いことになっているのだろうとぼんやりと思った。無性におかしくなって、ちょっと吹き出した。
そして、なぜか、涙があふれてきた。
それに気づき慌ててハンカチをさぐる影、いつもと調子が違うのだろうか、ハンカチがなかなか見つからない影はぼやけて見えた。
好ましく思えた。