11:12

生まれたその瞬間から女性にはもててきたような気がする。それはもちろん自分の秀でた外見に由来するものだろうが、母親と祖母との三人暮らしだった幼児期、その二人に限りない愛情を注がれつづけたことから生まれる意識なのだろう。だから小学校にあがり、同年代の子供たちから好意以外のものを浴びせられて彼は混乱し、激しく恐れた。大別して悪意に属する感情に対してとる態度はいくつかある。たとえば攻撃的になることで悪意のもとを排除することもあるし、さっさと遁走したり屈服することもあるだろう。彼が選んだのは他の子供たちとは少しだけ違うやり方だった。悪意を正確に分析し、許容範囲を定めて受け止めるように身をかわすという。たとえばいじめっ子に対しては普段はなるべく避けるようにし、自分の誇りが許す程度にはやられてやる、というような。可愛げはないが相手をよく見て分析しないとできない対応だ。
物事を見る目は天性のものだと思う。誰かの悪意、それが受け止めないと相手の気がすまないものかどうかであったり、野球のボールがストライクになるかどうかであったり、ここに来る前の職業だったプログラマでは、プログラムをざっと見ただけで問題になっている部分がなんとなくわかったりした。おそらく、自分は他の人間よりも視覚情報の処理能力が高いのだろうと思っている。そしてそれは地下ではとても役に立ってくれていた。
対面する相手、動くその身体から受ける印象の強弱となってその恩恵は現れる。相手が次の瞬間に移動できる範囲、そのツメが被害を及ぼせる範囲、そして相手がやる気なのかそうではないのかまでなんとなくわかるのだ。生き物相手ならばよほど理不尽な速度で動いてこない限り読める自信があった。
しかし、長所は裏返せば短所になるものだ。関節と筋肉とで動く存在相手には効果を発揮する彼の特性も二つの存在には却って短所になるのだった。一つは生き物ではないものであり、一つはそんな読みが無意味なくらい速く動くものだ。
もちろんそういう存在にはなかなか出会うものはない。第一層ではいちごジャムと呼ばれる粘液状の化け物が前者に属したがまだまだ彼の敵にはならず、後者ではまだ出会っていなかった。同時期に戦士として探索をはじめた津差龍一郎(つさ りゅういちろう)や真壁啓一(まかべ けいいち)は彼が対応できないほどの速度で打ちかかってくるけれど、第二層に達した真壁によれば彼がてこずるような速度で動くものにはまだ出会っていないという。第二層ならば自分はまだ問題はない。それが、今日からここにやってきた理由だった。
山賊と呼ばれている人間型で短剣を持った生き物を蹴散らしその自信を再確認する。いつもどおりに罠解除師の木場直志(きば なおし)がお宝を守るエーテル塊をほぐしている間、怠りなく周囲に視線をめぐらせていた。背中を「金貨だ!」という嬉しそうな声がたたいた。神崎は戦慄した。そしてどうして喜びの声を出せるのかと腹立たしくなった。
治療術師の技術の中に各人の識別能力を高めるものがある。それを迷宮に入る際に施しておけば、それまで読んだり聞いたりして覚えておいた化け物と目の前にいるものを早く一致させてくれるというものだ。相手をどれだけ速く認識しその化け物に応じた対応を取れるかどうかが生死を分ける迷宮内部では必需品と呼べる治療術だった。もちろんそれを生かすためには事前に化け物の情報をたくわえておかなければならない。そのために毎日事務所には確認された化け物に関する最新のファイルが出されているし、探索者専用のホームページには最新の情報が載せられる。自分が毎日長い時間をかけて読み返している同じことを木場もしているものだと思っていた。しかし彼は金貨だとのんきに喜ぶだけだった。神崎の頭の中で結び付けられた存在、通称を金メダルと呼ばれる円盤状の化け物のことは思いつかなかったらしい。
すぐ放せ! という怒鳴り声は悲鳴にかき消された。正式名称をクリーピングコインというその化け物はどういう原理か発電することができ、それがごく付近の空間に激しい火花を生み出す。金貨に似たの外見に惑わされて鑑定しようと目を近づけた人間は、失明することすらあった。悲鳴は二つ、戦士の御前崎甲(おまえざき こう)のものもある。二人してなんて奴らだ。
放り出された金メダルをすぐに破壊しようと駆け寄る視界ががくりと下がった。そして左足に激しい激痛が走る。左のアキレス腱あたりのツナギが切り裂かれ真っ黒に染まっていた。
――なにが、起きた?
周囲を見回す。白く小さな生き物がこちらを見ていた。いなばと呼ばれる白いウサギだった。数は五匹。ぴょん、ぴょんと飛び跳ねている。
――ちがう。あれは、生き物じゃない。
形は生き物だ。だが、毛皮によって判別しにくいとはいえその動きと筋肉の動きは一致していなかった。脳裏に危険信号が走る。――ファイルには第二層でもっともすばやいと書いてあったはずだ。動きが読めず、すばやい敵。
確かにその跳躍は津差や真壁ならば苦労なく叩き落せる速度だったろう。しかし相手の動きを読む特技に頼ることで彼らよりも遅い反射神経をカバーしてきた神崎には対応不可能な速度域だった。くわえて片膝をついている不利もあった。
喉に激痛と衝撃。喉ぼとけのあたりの肉をごっそりと失った頭部はその重みで前にたれ、かろうじて残った意識が自分の全身を映し出した。
彼の目は、自分の身体がもう何もできないことを正確に読み取った。
そして、暗転。