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木曾の山はもう雪に包まれている。普段だったら都市部に出稼ぎ(各地の町道場へ稽古をつけに)行くべき時期だったが今年もそれはしないでよさそうだった。ささやかながら事業団理事の報酬もあるし、一年目のハウス栽培のイチゴは目が離せない。これが軌道に乗れば今後は冬のたびに家を留守にしないで済むだろう。もっとも、かつて淋しがっていた娘二人はもう家を出てしまっているが。
旧家屋ということで風通しのよすぎる部屋、それでも囲炉裏の炭火をかんかんにおこしたので来客は快適そうだった。出されたお茶をおいしそうにすすっている。そのしぐさを見て夫婦は少しほっとした。
迷宮探索事業団と独占取引をしている商社の担当者が変わるという話を聞いてから半月、どんな人間が来るのだろうと不安に思っていたのだ。前任の担当者はその男を高く評価しているようだったが、それはあくまでも彼が迷宮探索事業に抱いている価値(歴史的価値? だとか)のためにである。夫婦は初老の営業マンであった前任者を好いて頼っていたがその価値観は理解できないものだった。もともと彼らは『人類の剣』と呼ばれてはいるが、戦闘能力に秀でているだけであとは一般人となんらの変わりもない。世の中の標準と同じように政治と経済の感覚に欠けていたし、ありとあらゆる英雄的な精神からも無縁だった。みな日々のつとめで生計をなんとか立てている傍らでその技術を磨いているに過ぎなかった。どうしてその努力を続けているかといえば義務感では断じてない。それは単に先人たちの努力に対する義理と――政府から支給される月10万の維持費用のためでしかない。彼らはあくまで通常の体制や常識では即応できない事態に対する応急処置なのである。現実に、再来年から名誉理事を一人ずつ普通のひとびと(おそらくは防衛庁あたりの天下り)に移していく計画を練っていた。その交渉(名誉理事たちはできるだけその名誉を長く保っていたかったから抵抗があった)が夫婦の現在の仕事の大部分を占めている。
剣の技術、魔法の技術を除けばどこにでもいる中年夫婦でしかない二人にとってはなるべく波風立たずに穏やかにやってくれる人間を期待するのが正直な気持ちなのだった。
目の前の男は夫婦が抱いていた懸念とは無縁の人間に思えた。はじめはその悪相にぎょっとしたが、つとめて浮かべる笑顔が自身もその顔を気にしこちらを怖がらせないようにしている気遣いを強く感じさせた。彼は簡単な挨拶をし雪に驚いてから、前任のやり方を引き継ぐと明言した。夫婦はもちろんその言葉を信じた。後任者は前任者以上の結果を要求され、ビジネスの世界では結果とは利益のことだと知ってはいたが、まだ若さを感じさせる笑顔には二人を安心させる頼もしさと誠実さがあったからだ。
玄関先で見送るとき何の気なしに京都にお戻りですかと尋ねた。
「いえ、今日は東京に向かいます。迷宮街には明日の午前中に」
本社に出頭するのかなと漠然と思った。その一瞬に見せた凄みのある笑顔に自分はこの男をつかみきれていないのではないかと不安を感じた。