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入力することでその日記を読むことができるパスワードは自分たちのプライベートな数字だったから、現在の読者は自分一人だけだと確信できた。真壁啓一(まかべ けいいち)がこれを書き始めた当初、神野由加里(じんの ゆかり)にとってその日記を読むことは心苦しい行為だった。恋人の生存を知りたいという欲求、その恋人にはっきりした態度を示せない自分に対する苛立ち、そして、楽しげに描かれる京都での生活を行間から想像して憎らしく悲しく思ったものだ。それも昔の話だ。今では暖かい気持ちしか起こらない。
「あれ?」
マグカップを置いて最後の文章を読む。そして数日前まで日記をさかのぼった。
恋人の仲間である笠置町翠(かさぎまち みどり)とは面識があった。自分とは違うタイプのすがすがしい、やさしい、魅力的な女の子だった。その子がなぜか深く落ち込んで恋人が立ち直らせた話は読んでいるし聞いていた。それですっかり回復したのだと思っていた。だがここでまた立ち直ったという文章が出るからには、結構長いあいだ落ち込んでいたのだ。
電話しようか。携帯電話を取り上げた。たった一日だけの面識しかない相手だったが、由加里は彼女を好きになっていた。所詮男である恋人ではどうにもできないことでも、顔を合わせる恐れのない同性である自分になら言えるかもしれない…・…。
いや、やめておこう。自分のあずかり知らないところで「落ち込んだ」と書かれているなんて、誰だっていい気分はしないはずだ。
立ち上がってカーテンを開けた。昼間は雲ひとつなかったのに、すっかり星は見えなくなっていた。明日は雨だろうか? 雨だったら図書館に行かずに家で卒論を書こうかな。
普段どおりに恋人の無事を、そして今夜はその仲間の心の安寧も一緒に祈ってカーテンを閉めた。