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五寸釘は既に尽きた。両手に握った二本のナイフ(とはいえ刃渡り15センチ以上あるものだが)だけで既に三度の襲撃を撃退していた。濃霧地帯を出た直後の電話機の横である。西野に命ぜられるままに地上への電話をかけ、真城雪(ましろ ゆき)につなげてから西野に代わった。自分たちの救助に関しての指示を的確に出した後、今度は彼の行きつけの登山用品店につながせたようだった。縄梯子など必要な道具を全て指示して力尽きたように西野は座り込んだ。濃霧地帯に飛び込んだ直後、青鬼から三回切られた。すぐに止血をすれば良かったのかもしれない。しかし西野は先を急ぐ方を選び、電話までたどりついた時にはもう歩く体力は残っていなかった。
「真城さん…・…早く来てよ」
涙と返り血で顔を汚しながら、必死に西野の身体を抱きしめマッサージする。体温の低下は危険な兆候を示していた。必死で名前を叫ぶ。西野はうっすらと目を開き、早く逃げろとつぶやいた。三度の襲撃を無傷で切り抜けたその戦闘能力も何も、もう見えてはいないのだ。この登山家はそんな状態でありながらなお年下の娘の安全を気遣っている。
じり、と足音がした。救援かと振り向く視界に今度は赤鬼の群れ。三匹。小柄な娘と瀕死の男と出会った幸運を喜んでいるように耳障りな声を立てた。
「…・…こないで」
ぴたりとその声がやんだ。不安げに顔を見合わせる。娘は立ち上がった。
「どっかいってよ」
一匹が上体をそらした。一匹があとじさった。それが引き金になって、三匹がいっせいに逃げ出した。生物としての本能が絶対にかなわない相手を教えたのかもしれない。
その後姿が同時に二つ潰れた。残る一匹の上半身が消えうせた。鈴木にも何が起きたのかわからなかった。
「太一! 秀美ちゃん! いるの!?」
「真城さん!」
カードで買ったから金額わからない! と笑ったコート、会うたびに頼んで肌触りを楽しませてもらったカシミアのそれがどす黒い血で汚れていた。返り血を避ける努力もせず、おそらく出会うもの全て切り殺してきた女性は真っ黒になった顔の中で双眸だけを炯々と輝かせていた。
「よかった、秀美ちゃん! ――太一!」
西野の脇に膝を突き、ツナギの前をはだける。真っ青になった身体にポケット一杯の水ばんそうこうを振りかけた。
普段ならば炭酸のような音を立てて反応が起きるはずなのに、粘液はどろりとツナギの中に垂れていくだけだった。ちょっと! どうなってんのよ! と必死の形相で垂れていく粘液を肌にすり込む。鈴木は虚脱して西野の顔を見つめた。青白い顔、その瞳孔は開いている。
口元は満足げに微笑んでいた。