11:08

「第一層だ!」
西野太一(にしの たいち)の言葉を聞き、鈴木秀美(すずき ひでみ)は壁面から身体を引き剥がした。ねじって背後を眺めると、確かにぶあつい岩盤の向こうに何度も見た濃霧地帯の白いもやが漂っていた。一一時八分、とつぶやく西野の顔を眺めた。ヘッドライトに照らされたその顔はさすがに消耗しきっていた。鈴木ですらかすかに疲労を感じさせた登攀は、趣味として日々いそしんでいる者にも過酷だったと見える。その顔に、ふっと父の言葉を思い出した。
市役所勤務の平凡な公務員だった父は、ただ一つ毎晩娘に格闘の技術を教え込むという一点で他の父親とは違っていた。それは決して鬼気迫るものではなく、遊びもご褒美も混ぜたものだったから娘は屈託なく受け入れいていた。弊害が一つあったとすれば、その強力な行動力と生命力からどうしても周囲を軽く見てしまうようになったということ。しかし父親はあえて若竹を矯めようとは思わず成長するに任せていた。時期を待ったのだろう。
そして、新聞の一面に載った「迷宮探索の第二期募集決定」という記事を(当然テレビらん以外のページは読まなかったから)気づかずに遊び暮らしていた娘に父親はこともなげに言った。学校は来週で終わりにするように、お前は京都に行くのだと。
はあ? 何言ってんの? 反射的に聞き返しそれが父親への口の聞き方かとゲンコで殴られて落ち着いてから、反論を開始した。せっかく三年間学校に通って、春からはキャンパスライフが始まるってのになんでここで学校を辞めなきゃいけないんだ。私は女子大生になりたいんだ。そう言ったら行けばいいだろう、大学に行くのに高校は必要ないと大検の過去問題を渡された。とりあえずめくってみると、特に問題はない。作戦を変えることにした。沢山ひとが死んでいるところに娘を送り出すなんてそれでも人の親か、私にもしものことがあったらどうするつもりだ。それに対してもそんなやわな鍛え方はしていないの一言で納得してしまった。
お前は、と父は真剣な表情で言った。
お前は、他人を畏れる心を知った方がいい。本当に誰かをすごいと思ったらいつでも帰って来い。そう言われた。さらなる反論をあきらめたのは、その父親の言葉だった。修行の日々で少しだけ強い絆を築いている娘にはわかったのだ。父がその目をする時は従った方がいいのだと。万事自分のためを思ってくれているときの目だと。信じて行ってみよう、と覚悟を決めた。多分自分には何か足りないのだ。
迷宮街での暮らしは予想と反して楽しいものだった。素養としては基本四職業全てに適性を認められたが父からは戦士もしくは罠解除師にせよと言われている。前衛で剣を振るうのは面倒だったので罠解除師を選んだ。
父の言葉に反して、すごいと思える人間はたくさんいた。それはこれまでもそうだった。親戚の家の近くにあるパン屋さん(オリンピック選手らしい!)のパンにもすごいと思うし、両親、とくに母親はすごいと思う。この街でも部屋をシェアしている女性やその仲間たちは強く魅力的でああなりたい、と思う。父はどれだけの想いを感じたら帰って来いと言っているのだろう? 
そのときが来れば、多分それとわかるのだろう。なんといっても自分の心なのだから。そう結論付けて楽しい日々を送っていた。
ふっと意識を現実に戻した。脳裏に警報が鳴ったからだ。意識を集中する。
(西野さん)
小声に、西野が振り向いた。探索者相互で流通している手の合図を送る。すぐそこ、敵数匹。その合図だった。西野は表情をあらため、壁に張り付いた。そのままじり、じりと横移動を行う。第一層と第二層を隔てる岩盤にまで移動した。あと一メートル登れば濃霧地帯に入ることが出来る。駆ければ20分で地上に到達できた。敵さえいなければ。
(いなくなる気配は?)
鈴木は首を振った。向こうも違和感に気づいて警戒している。一分その場にとどまって、西野が意を決したように鈴木を見つめた。飛び込もう。そう言っている。鈴木はしっかりとうなずいた。
西野はその強力な背筋力で、鈴木は身の軽さで、それぞれ同時に濃霧の中に飛び込んだ。その勢いにかき混ぜられた空気があたりのもやを晴らす。そして青鬼がいた。鈴木に近く、二匹。西野のほうには三匹。臨戦体制だったらしく、即座に切りかかってきた。その二匹同時に動きが止まった。どうと横倒れになるその額には五寸釘が根元まで埋まっている。間髪いれずに身を翻した視界に三匹からそれぞれ斬撃を受ける西野が映った。真っ赤な血が吹き上がった。
頭に血が上り、無我夢中で両手を振り上げた。こちらに向ける後頭部、頭蓋の付け根にそれぞれ五寸釘が突き立つ。異変を察知した最後の一匹が殺戮者を振り返る。その胸からナイフの刀身が生えた。引き抜かれると青鬼が倒れた。
「西野さん!」
悲鳴をあげ、ポケットから水ばんそうこうを取り出して駆け寄る。西野は歩きながら胸元をひろげ、血が流れだす傷口に自分の水ばんそうこうを振りかけた。
「西野さん座って! きちんと止血――」言葉は西野の形相に飲み込まれた。水ばんそうこうをひったくると乱暴に身体にふりかけ、歩調はまったく緩めずに濃霧の中を歩いていく。本当に怪我人なのか? 小走りにならないと追いつけない。