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思っていたよりも、と巴麻美(ともえ あさみ)は目の前の夫、後藤誠司(ごとう せいじ)に感想を告げた。夫といってもまだ籍は入れていない。麻美の両親が古風なため(後藤は若い頃に両親とも死別していた)に、籍を入れるのは式が終わったあとだと譲らないのだった。面倒だと思うと同時に、この二人だったら籍を入れることを忘れるのではないかと不安だった。麻美はそのあたりはいい加減だし、夫は従わなくても実害のないしきたりには非常に無神経だったから。まあ、麻美が会社を辞めて京都に引っ越す四月には、失業保険をもらう必要上籍は入れるだろうが・・・。
思っていたよりも自分は嫌われていないみたい。その言葉は初めて迷宮街を訪れ、買取商社の責任者である夫に連れられて食堂に座って感じたことだった。それまでの電話では、当面の間君が来ても居心地が悪いぞと言われていたからだ。女28才、いまさら無言の悪意におびえることはない。迷宮街という場所を見たくて、なにより会社のお金で京都旅行がしたくて(月に一回、単身赴任の家族が赴任者に会いに行く旅費を負担する制度があった。厳密にいえば籍は入っていないから単身赴任にはあたらないのだが、そのあたりは二人とも社内にコネがある)訪れることにした。テストに不合格したあたりではつまらない、疲れた、淋しい、と毎晩電話してきた夫が案の定仕事がはっきりしてくるとかまってくれなくなったのがつまらなくもある。数ヵ月後には二人暮しが始まるということで最後の独身生活を楽しむつもりだったが、いざ夫に遠くにいかれると、実はかなりの時間一緒にいたのだなと実感させられてしまったのだった。
妻のほっとしたような感想に、夫はしくじったんだと残念そうな顔をした。あなたは仕事がやりにくくなったんだろうけど、私はいずれここに住むことになるんだから。そっちのほうがありがたいんですけど。内心では思うが言わない。一度仕事に熱中すると周囲の気持ちなどを忖度しないことはよく知っているし、いつまでも嫌われていて勤まる仕事ではないからどこかでまとめるつもりではいたのだろう。そのあたりの手腕は信頼していたから、四月に自分が引っ越してくる頃には問題ないだろうと安心していたのだ。
しくじった? と問うと脇から声がかけられた。
そこにいたのは二人の女性だった。二人とも麻美よりも背が高く、同じように髪を短くまとめている。身体から活力があふれているようで少し気おされてのけぞった。より背の高いほう、精悍といえる顔立ちの女性が夫に対し、昨日はありがとうございましたと頭を下げた。夫は彼女らを見上げたまま笑ってどういたしましてと答える。
なごやかなやり取りを笑顔で観察した。どうにも、昨日この女性が困っていたときに夫が助けたらしい。心から感謝の念を述べる女性――手の甲からして麻美と同じか少し下くらいで、女の自分から見ても美しかった――に対して夫の悪相は完璧に制御され、つまり最重要顧客に対する顔だった。これが『しくじり『の内容だろうなと想像がついた。妻ですと紹介されて笑顔で会釈した。
二人が去っていったあと、あれがしくじった相手かと小声で訊いてみた。夫は苦いものを飲み下すようにうなずいた。
そもそも迷宮探索事業に関してはゼロサムゲームではない、というのが夫の基本前提だったという。現時点でこそ探索が停滞しているから収穫となる成分も少品種多量になりパイの取り合いになりかねないが、理事たちが少なくとも第九層に達し、さらに希少な化学成分も発見されているのだそうだ。停滞を乗り越えるには理事たちのような常識を外れた能力が必要となり、目の前の宝の山にどうしても到達できない状況に絶望した探索者がじりじりとリタイヤしていくのが現状だったという。夫がこの街でやるべきことの一つ目はこの状況を、彼の会社が主導権を握って打破することなのだ。その成果をもって現在の定額買取を変動相場に一気に切り替える。そうすることによって、買取においての高い利益率を実現することができるだろうというのがこの街に来て一週間で彼が描いた当面のビジョンだった。そのためには、もちろん現状を打破する方策も必要だったが、いざそれを実現した際にしっかりと交渉できなければいけない。夫の嗅覚は、その交渉相手が事業団ではなく探索者の総意とでも呼べるものになると確信していた。となれば交渉相手を絞ることが必要となる。まさか300人以上の一人一人と話すわけには行かない。まず第一に全員に納得してもらうのは不可能だし、第二に可能でもコストがかかりすぎる。反対意見をねじ伏せ理性的に合意できる誰かを探索者の中に見つけられないか――それを最終目標として、まずは一人一人をよく知ること、適任者に少しずつ発言力を持たせる(本人には気づかせずに)こと、探索者全体にまとまって交渉しようという気風を根付かせること。理想は労働組合を作らせることだという。
そのためには探索者たちが団結して立ち向かうべき敵を商社側に作るのがいちばん楽で、その役は自分以外いない。そのためのジャブとして探索者の一人に内部分裂の画策を匂わせることで警戒心をあおったのだが――もっとも影響力のある人物に結果的に協力することで、その人物が抱きつつあった自分に対する警戒や反発が消えてしまったのではないか。時期をおけばまた燃え上がらせることはたやすいが、一つ目の石が奏効した手ごたえを感じていただけにもったいないとも思うのだった。
でもまあ、と慰めた。その時は損得で助けたんじゃないんでしょう?
憮然としてうなずく。まあ、そのあたりが田垣専務の言うところのケツの青さなんだろうな。
「それでいいんじゃない? そういうところがなかったらいま私はここにいないだろうから」
それでも未練がましく複雑そうな表情に小さく吹き出した。