16:13

階段を下りてゆくと好きな俳優の声が聞こえてきた。木賃宿の二階と三階は二段ベッドが並ぶモルグと呼ばれるフロアだった。どちらにもテレビが設置されており、常に何かしらの番組が映し出されている。いつも可笑しく思うのは、ここでもまたほとんどの時間はNHKもしくは教育テレビが流れていることだった。病院の待合室ではいつもそうだったのだが、まさか子どもと老人がいないこの建物でもそうなるとは予想外である。NHKと教育テレビにはチャンネルを繰る手を落ち着ける魔力があるのかもしれない。
今はもちろん民放で、過去の連続ドラマの再放送と思われた。そのセリフには聞き覚えがあったからだ。声に誘われるように神田絵美(かんだ えみ)は二階のテレビのスペースに歩いていった。
「神田さん。今日は潜ってたんじゃなかったんですか?」
テレビの前に並んでいる男たちの中から聞きなれた声が神田を迎えた。ソファから首を捻じ曲げて彼女を迎えている顔には大きな青あざ。探索者中最強の戦士と称えられる男だった。名を越谷健二(こしがや けんじ)という。何が楽しいのか大の男で満員のソファを眺めると、越谷が得たりとばかりに自分の隣りに場所をあけさせた。微笑んで座る。
なんだか雪が、地上でやりたいことがあるって言ってね。第三層だけで終わってきたんだよ。神田のその言葉にやりたいこと? という質問がかぶさった。うん。探索者の説得工作だって。
「ああ、これですか」
ソファに座っていた進藤典範(しんどう のりひろ)がそれまで眺めていた紙片を差し出した。そこには昨夜後藤誠司(ごとう せいじ)が開陳した竪穴をつらぬくゴンドラの図と、彼がそれを探索者たちに販売する上での条件が書かれていた。神田はそれを受け取り、まずは条件の紙を眺めた。どんな絵かは探索の間中リーダーの真城雪(ましろ ゆき)に聞かされていたからだ。
「50%減か・・・進藤くんには辛いねえ」
販売条件は、現在定額で買い取られている死体中の化学成分を、相場と連動した価格にしたいというものだった。現在の採取量をもとにしたシミュレーションがそこには描かれていた。第一層での買い取り価格、平均して50%減。第二層は27%減。第三層は変化なし。第四層は15%増額。なるほど、希少なものには高い価格をということか。それはそれで納得できる。もちろん納得できるのは、神田がすでに第四層で稼いでいるから、つまり15%とはいえ収入が増えるからだ。
「まあ、第二、第三へと降りていく動機になりますからいいと思います」
進藤の頼もしい言葉にあいまいに笑う。彼はまだ第二層を知らない。第三層を知らない。だからこうやって希望をもてるのだ。この街には、探索を進行させるという熱意を失ってなお(足を洗って地道に稼ぐ気概をも失ってもいるのだろう)地下にしがみついている者たちが存外に多い。彼らは既得の利益を手放そうとはするまい。多数決ならば圧倒的にこちらが不利なその交渉を、基本的に善良でしかも自信家の娘に任せておいていいものだろうか? 不安になって隣りの男を見つめた。越谷くん。
「なんですか?」
この件が落ち着くまで、雪が他の探索者と交渉する際には張り付いてくれない?
青あざのために青面獣と呼ばれている男は沈黙した。同じ不安を抱いたのかもしれない。
頼むよ。あの子は結局君の言うことしか聞かないから。続けたその言葉に越谷はうなずき立ち上がった。頼まれた以上今から張り付くつもりらしい。さすがに歴戦の戦士は決断が早い。見送って後姿に頭を下げた。
「でもさ、これはうまくいくのかなあ」
改めてスケッチを見てそうつぶやいた。進藤が興味をそそられたようだった。お? 図画工作の第一人者から見れば難ありの設計ですか?
テレビを見ていた全員の意識が自分に向いたことを感じてすこし緊張した。もう30になるのに恥ずかしいが、見知らぬ男性の相手はすこし面倒に感じる。それでも説明の仕方を考えて、とりあえず進藤にひとつ質問することにした。電気を運ぶ送電線があるでしょう?
ありますね、と進藤がうなずく。それが何か?
「あれはどうして化け物に切られないんだと思う?」
進藤は沈黙して他の男たちを眺めた。みな首を傾げるばかりで答えを言おうというものはない。私の推測なんだけどね、と前置きをしてから言葉を続けた。
「送電線が切られないのは、あれが何をするためのものか怪物たちがわからないからだと思うの。彼らはきっと電気を知らないよね。知らないから、迷宮に設置されたライトが実はよそから燃料を運ばれてきているものだって想像できない。だから当然、送電線を切ればライトが消えるっていうことを想像できない。だから、切る必要がない」
進藤はしばし考えて、ああ、そうかとうなずいた。そういうことですね。そういうことか。・・・でもこのゴンドラは。
「鉄を鍛えて剣にしている怪物たち、それはきっとふいごを実用化していることだと思うの。ふいごを作るような文明を持っている生き物が、滑車の原理を理解できないと思う? ゴンドラが上下に移動するのを見てあの滑車とぶら下げる鎖を見たら、どうしたってそれを壊そうと思うでしょ。そして、こういう大きな機械の場合は設置するのはまだ楽だけど、壊れた時に交換修理するのはものすごく大変なのよね」
自分が怪物だったら? 敵の一群がそれに乗って地下に下りていく乗り物があれば、その弱点がわかればとりあえず壊そうとするはずだ。
でも、と進藤が異議をはさむ。もしかしたら、第一層の化け物は俺たちが第一層を素通りして降りていくことを歓迎するのかも知れませんよ。もしそうなら壊されないのでは? 神田はうなずいた。もちろんそうだ。その可能性はある。しかし。
「ゴンドラの弱点を見抜く可能性があり、それを壊す能力を持っている生き物がそこにいるなら、絶対壊されないためのなんらかの対処が必要なんじゃないかしら。それができない限り私は賛成できないわね」
なるほど、と進藤はうなずいた。