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自動ドアを通った笠置町葵(かさぎまち あおい)を雨の匂いが迎え出た。おっと、と思う。朝には振り出しそうだった雨、念のためにリュックに折り畳み傘を入れてよかった。自分は。自分を待っている男は――いた。かなり大きな折り畳み傘をさしてぼんやりと車の往来を眺めている。彼が肩から下げているスポーツバッグはドラえもんのポケットの類に思えた。とにかくなんでも入っている。以前、そこから突然現れた紅茶の魔法瓶でお茶をしたこともあった。当然折り畳み傘の二本や三本は入っているのだろう。
「おまたせー」
常盤浩介(ときわ こうすけ)は振り向いてにっこりと笑った。最近は、とその笑顔を見て思った。最近は少しだけ笑顔が気楽になったのではないだろうか。最初にあった頃からもちろん仲間である自分にはやさしく気安かったが、その頃はなんだか前方しか見えていない人のようだった。その頃の彼にはそうさせるだけの経済的な事情があったが、一緒にいて気詰まりするような壁を感じることもたびたびあった(少なくとも他の部隊の女性探索者はそう言っている。双子の姉は今でも遠慮されていると感じているが、これはまあ、男性の探索者のほとんどすべてが彼女に対して抱く畏怖もあるだろう)。でもそれは最近はとても和らいでいる。経済的な問題が解決したこともあるし、おそらく――すこし妬けるが――大学時代の先輩と出会ってやりたいことが見えてきたためでもあるのだろう。
降ってきたね、午後から晴れるらしいけどね、そんな会話を交わして自然と傘のうちに入った。
中に入って待っていればいいのに。そう言ったらやっぱり怖いからと苦笑を浮かべた。建物の中には自分の父が来ていて、今日は父に弁当を作って届けにきたのだった。だらしないなあ、と思う。先日夕食をともにした時も常盤はかちんこちんに緊張してしまっていた。おおらかに笑って食事をしていた真壁啓一(まかべ けいいち)とは大違いだと少々がっかりしたのだった。
「いやいや、真壁さん別に翠さんとつきあってるわけじゃないし」
比べられても心外だ、との言葉にそうだったわ、と意表を突かれた思いだった。ずっと姉の想い人といえば従兄だったのが、最近では自然にその位置を仲間の戦士が占めるようになっていたから勘違いをしていたらしい。
結構時間がかかったね、との言葉は責めているととられないようにとの気遣いが感じられる。それを好ましく思いながらもうーんと生返事をした。話題は姉のことだった。
姉である笠置町翠(かさぎまち みどり)はたった今地下に潜っている。湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)という治療術師が率いる精鋭部隊の一角に出稽古で加わっているのだ。部隊としての生死を分ける一線を知るために、現在成功している部隊に加わりたい――真壁のその意見は双方の同意を得、厳選された第二期の探索者たちが加わることになった。候補として許されたのは七名で自分の部隊からは自分と姉、そして真壁が認められた。いくらなんでも三人行く必要はないだろうと自分はパスしている。実際は一緒にいるこの男に待つ苦痛を味わわせたくなかったからだ。ともあれ姉はいま地下四階にいる。多分大丈夫だろうとは思うが、考えるだけできゅんと胸が苦しくなる。不安要素を最近見つけたからだ。
先日、部隊は一つの危機に出会ってなんとか乗り越えた。戦士の一人である青柳誠真(あおやぎ せいしん)は重傷、真壁も一時的に意識を失うというかなり危険な事態だった。その時の姉の行動がまだ頭に引っかかっている。自分の術で戦闘は終結した。それはかなり広範囲の怪物を即死させるものだったので物陰に隠れていようがお構いなしに死んでいたはずだ。だから比較的安全だったとは考えられる。また、真壁の出血も相当のものがあり放置が許されるものではなかった。それでも、行動の順位としては青柳の回復、翠と青柳、自分とで警戒態勢の再建、真壁の治療、そして翠の治療だったはずだ。それくらいのことは姉にもわかると思ったのに。戦闘が終了したのを見届けて崩れ落ちた真壁(本人はクマに頭を殴られた時点で意識がないと言っているが、実際はその後一度いなばの打撃から常盤をかばっている。つまり彼は無意識でも生き残るための優先順位がわかっている)に悲鳴をあげて駆け寄ったのだ。怒鳴りつけて警戒に加わらせようと思って見たその顔、久しぶりの泣き顔にあっけに取られ、これじゃ役に立たんとあきらめて自分だけで(奥歯が震えるのを我慢しながら)警戒を続けた。
問題に気づいて飲み込むような遠慮はもう部隊内ではなくなっているから、他の誰もその行動の言語道断さに気づかなかったのだろう。だからあとで個人的にしっかりと注意して反省させたのだが――
全体よりも特定の個人の安否を優先されたら一緒に潜ってなんかいられない。そういう弱さが姉にあるのであれば、いくら剣術が達者だろうと肝が太かろうと探索者として、武人として失格だと思う。そのあたりのことを父に訊いてみたのだった。
「あれもまだ子どもだし、やっとできた恋人なんだから仕方ないだろう」
父は相変わらず娘たちに甘い。その一言で終わってしまった。姉の従兄への思いを悟られないように誤解を解消させずにおいたからそれ以上続けることはできず、もやもやとした思いでその場を去った。弁当箱を返すついでに夕飯を食べに行くという父の言葉にいやだなあと思いながら。
隣りを歩く男の顔を見上げる。ん? と微笑むその顔にこちらも笑顔を返し、しかし頭のどこかで冷静に告げる声がある。この男を見捨てる覚悟はもうできている、と。部隊全部とこの男一人だったらきっと私は迷わない。それは、ともに死線をくぐるものの最低の礼儀だ。しかし、姉にはその覚悟があるのか? あの反省で割り切れるようになったのだろうか?
迷宮街に双子を送り出す父は、しかし別々の言葉を与えた。自分には「月10万を目指してがんばって来い」と。姉には「まずいと思ったらすぐに逃げて来い」と。それは単にえこひいきだと思っていたが違う。
父から見て姉は相当に危ういのだろう。なんとかしなきゃ、と唇を噛んだ。雨の寒さの中、指先をやさしく暖めてくれるこの男を死なせないためにも。