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大仰にならぬよう気をつけつつ、少し時間をもらえないかと上司に頼んだ。自分たちの残業申請書に判子を押していた彼はその手を休め、国村光(くにむら ひかる)を見上げる。この場でいいか?
できれば別室でとの言葉に立ち上がった。
小さなミーティングルーム、扉にかかれた「会議中」の欄に青いマグネットを移動させて二人向かい合って座った。で、なんだ? と軽く促され国村は辞意を告げた。
「すみませんが、仕事を続けられなくなりました。辞めたいと思います」
予想に反し上司は喜怒哀楽を表に出さず、そうか、とうなずいた。その様子に自分はいらない子だったのか? と辞意を表明しつつもすこし悔しいのは勝手な心の動きだった。そんな思案を弾き飛ばすような言葉を上司は続けた。
「京都に行くのか?」
絶句する。会社には秘していたはずの週末の過ごし方、この男は気づいていたのだろうか? どうしてご存知ですか? と問うと彼はあいまいな表情でうなずいた。ネットで迷宮街の日々をつづっている日記があるのは知っているか?
国村はうなずいた。真壁啓一(まかべ けいいち)という第二期の戦士の手になるそれを彼も読んだことがある。自分が独自に学び、他の人間が驚きはすれど理解はできなかった体術、少なくともその価値を正確に理解している彼を大したものだと思ったものだ。だがあれは、と考え込んだ。
「知っています。でもあれは、確かまだ迷宮街の探索者にしかパスを知らされていなかったと思いますが」
そう言うと上司は頭をかいた。ルール違反で俺は読んでいるんだ。
ネット上でそのパスが流れているというのは容易に想像できた。本人も近日中に一般公開すると書いているしそのこと自体には問題はないだろう。探索者を志す人間が参考にするためならばともかく、普通の生活を営む人間が自分のことに気づくほど読み込むとは思ってもいなかった。
「パスを教えてくれたのが女房の妹でな。よくその日記に出て来るんだが」
探索者なのですか? うなずきが返ってくる。
「女房は両親を早くに亡くし親戚とも疎遠で、たった二人の姉妹だった。その妹が危険な探索者になって連絡が滞りがちだったことを不安に思っていたのだが、妹がそれを和らげようと特別に女房にパスを教えたんだ。自分に何かあったら必ずその若者は書くだろう、だからそれを読んで特に描写がなければ便りがないのは良い知らせだと思っていいということでな。俺も結婚式の時に妹には会っていたが、その時と変わらず無邪気な振る舞いが伝わっているようでついつい読んでいた。それでお前の名前を見つけた」
沈黙。そして、藤野さんという女性は――と訊きにくそうな言葉。国村はうなずいた。恋人でした。
「事情は日記で読んでわかるつもりだ。本来ならお前に抜けられたら困る。けれど、あの日記を書く子がお前があそこに行くことで安全が増すというのなら、お前はそれをするべきなんだろうと俺も思う。女房の妹も死なずに済む可能性が増えるとしたら、絶望的だが近藤や和田を鍛え上げる方を選ぶ。まあ公私混同だな」
上司は立ち上がった。すぐにでも行きたいのだろう? 国村はうなずくと、二週間後で辞められるように書類は通しておくと言ってくれた。有給は幾日残っている?
「七日です。消化していいんですか?」
そうか、とうなずく。じゃあ今週木曜から来なくていい。
「水曜までに送別会ができなかったら東京には顔を出せよ」
ミーティングルームを出る背中に深く頭を下げた。