勝利の昂揚は一秒も続かなかった。もちろん鋼の自制心があるからではない。歴戦であればこそ、お互い武器を持たない状態で寝転がった相手の上にまたがっている自分の有利はよくわかっていた。あとは参ったするまで殴るだけ。いや、物わかりがよければ上に乗られた時点で負けを認めるだろう。自分だったらもう降参するはずだ。何しろこれは所詮試合で祭りなのだから。ほら早く降参しろ――と、ここまでが0.7秒くらいの思考だったから確かに1秒間に満たなかった。そして下になって絶望的なはずの葛西紀彦(かさい のりひこ)の右拳が上に乗っている黒田聡(くろだ さとし)の左の頬に食い込んだのがその瞬間だった。黒田の上体はぐらりと脱力したように揺れ、鼻血が大量にこぼれた。間髪をおかずに今度は葛西の左拳が顎を跳ね上げた。
いてえ。
なんだ。
何が起きてるんだ。
勝負は終わりじゃなかったのか。
混乱する中で、ああ、人間は考えているときに殴られると思考が途切れるんだなと冷静な発見をしている自分もいた。止むことなく顔面に伝えられる衝撃はその都度脳裏の言葉を中断させ、本人も気づいていなかったが論理的な思考力も少しずつ削っていった。どうして有利であった自分が殴られなければならないのか、そこをいぶかしむことすらできず間断なく加えられる顔面への衝撃と激痛に心が屈しようとする。
殺される、と思った。
ふざけるな、と思った。
「いっ――てえなこの野郎!」
怒声とともに全力で顔を殴りつける。馬乗りになる自分を半ば以上持ち上げつつ浮き上がっていた葛西の胸、肩、後頭部が同時に床板に叩きつけられる一撃だった。しかしそれでも動きは止まらず両方の頬にまた衝撃が加えられる。
なんでだよ。どうしてマウント取ってる俺よりもお前のほうが手数が多いんだよ。K-1やPRIDEの皆さんに申し訳ないと思わないのかお前。必死になって顔を、肩を、喉を殴りつけるがそれよりも多い回数自分の上体も揺れる現状に恐慌状態に陥った。だめだ。信じられないが、殴り合いだと俺が負ける。俺のパンチじゃこいつ死なないよ。このままじゃ殺される。
右手が自然に葛西の左襟首を掴み、左手が右の奥襟に当たる部分をとった。締め技なんて高校の柔道の授業で先生がやっているのを見たのが最初で最後のことだ。これで効果がなければ多分自分は死ぬ。ただただ腕に力をこめた。
上になっている自分が襟に手を伸ばしているのだ。当然葛西の顔面への殴打は止んでいた。しかしそれは、単に両わき腹に対象を変えただけともいうものだった。グローブがわき腹にめり込むたびに先ほどの芋煮が逆流しそうになる。やめろ。吐くぞこの野郎。いいのか。お前下になっているんだぞ。
いいんだろうな。まったく気にしないんだろうな。俺を殺すことしか考えてないんだよこいつ。帰りてえ。腹筋と手首の筋肉に全神経を集中させながら黒田は叫んでいた。いい加減に!
わき腹への激痛は容赦なく続く。本当に締めは効いているのか? 力が増しこそすれ衰えているとは全く思えない。
「くたばれってんだてめえ!」叫びはもう悲鳴のようだった。
唐突に葛西の両腕が床に落ちた。同時に審判の「やめ」という合図が響く。黒田はほんの少しだけ腕の力を緩めた。まだ掴んだ襟は離さない。
審判の橋本教官が葛西の顔の上にかがみこんだ。手を離せ、黒田。葛西はもう落ちている。その言葉にほっとして指の力を抜こうとするが、どうしても手は離そうとしない。頭ではわかっているのに身体が命令を拒否しているような感覚だった。
「もういい」
大きな手が肩に置かれた。もう大丈夫だ。こいつがまだ生きていても、俺は殺されないですむ。肩に置かれた手のひらがそんな安堵感が伝えてきて、ようやく指はほどけた。そのまま身体を右に倒す。受身すら取らずに床板に倒れこんだ。
「勝者、黒田!」
審判の声と歓声が遠くに聞こえた。黒田ってのは誰のことだろう? と疑問に思う。俺以外にもこの街の戦士にいたのだろうか?
まさか俺じゃないよな。とても勝ったような気になれないのだが。