擬態か? 葛西紀彦(かさい のりひこ)の心にまず浮かんだのはその可能性だった。最初のダッシュに対しての反応、キャプテン翼にも出られそうな破壊力のキック、袈裟懸けを余裕を持って受け止めた技量と見かけからは全く信じられない(津差より上なんじゃないのか?)膂力などなど、今のところ勝利をもぎ取るためのどんな要素でも黒田聡(くろだ さとし)の方が分があるのは明白だったからだ。次の試合を睨んだ上で消耗戦を避けようとしているのだろうか? なんとなく違うような気もするのだが他に考えられなかった。それほどまでに攻め気が感じられない。
消耗を避けるなら先に打ち込ませて後の先を取るつもりか、あるいは神足燎三(こうたり りょうぞう)ばりのペテンにかけるつもりか――後の先を取られるほどの実力差があるとは思えない。しかしぎりぎりまで研ぎ澄まされたこの場で自分をたばかるような奇策を持っているとも思えなかった。というより、全く手の内がわからないのだ。こんなことならもっと訓練場で打ち合っておくべきだったと後悔したが今更に悔やんでも始まらないのはもちろんだ。
そういえば、どうしてお互いを稽古の相手に選ばなかったんだろう? いつも自分が打ち合っている野村悠樹(のむら ゆうき)とタイプが似ているからだろうか? もっと何か理由があったような気がするが思い出せない。ただ、いつ頃からか会話もすることがなかったような。多分彼のほうから避けるようになったのだが――ふっと脳裏に浮かんだのは白い顔。ああ、そうか。苦笑し、そして我に返ってぎょっとした。いま、たっぷり2秒近く俺は考え込んでいなかったか? どうして彼は打ち込んでこないのだろう。消耗戦を避けたかったら千載一遇のチャンスだったはずなのに。改めて敵手の顔に焦点を結ぶと、黒田も好機を逸したことを知ったのだろうか。苦い顔をしている。
本当にためらっているか、念入りな罠なのか。迷いは一瞬だった。罠だったならば自分よりはるかに上だったというだけのことだ。木剣を強く握り締めた。先ほどの試合の教訓を生かしわざわざ新品を選んできたものだった。
呼吸を深く、規則正しく整える。意識してまばたきの感覚を均一にする。まさか黒田が自分のまばたきを測っていることもないだろうが、相手の情報を得ようと本当に集中している人間はそういった細かな情報まで無意識に集めていることを彼は知っていた。それをあてにしたフェイントももしかしたら効果があるかもしれない。できる準備はすべてする。その上でならば最悪の結果も平然として受け入れられる。探索者ならば当然の心構えだと思っている。すとんと腹が据わった。
五回目の呼気を終えた瞬間、それまでのまばたきで目をつむるタイミングで地を蹴った。黒田は当然動じず、四肢を緊張させた。ためらっていたのか? やはり罠だったのか? 不安はもはやなく、ただ平静な心で切りかかった。
右胴を受け止められるのは計算通り、恐れていた切り返しはやってこなかった。さらに右から首筋、これはさすがに弾かれてその動きのままくるりと旋廻し木剣が降りてきた。かまわずに懐に飛び込み軽く肩を当てる。黒田が飛びのく動きのため、肩を軽く叩いた木剣はツナギで勢いを殺されほとんど痛みをもたらさなかった。当然有効打には認められない。
下がった場所で再び黒田は腰を落とした。その待ちの姿勢は相変わらずで、今度はより積極的に距離を詰めた。
悪い予感はどちらに感じたのだろうか。
先ほどまでの迷いが失せていたその瞳だったろうか。
あるいは、何を考えたか自分の目の前に放り投げられた木剣が描く放物線だったろうか。
いずれにせよ葛西が感じた驚きと躊躇は貴重な一瞬をその行動から奪った。
飛んでくる木剣を反射的に弾いたとき、葛西はツナギの肩と内股がつかまれていることに気がついた。
「正解をありがとう」
静かな声。そして気合とともに軽々と身体が肩の上にまで持ち上げられ、葛西は混乱した。俺だって80kgはあるというのに! 化け物かこのやさ男!
「迷っても仕方ないんだな、戦いの場では。それよりは覚悟を決めて飛び込むことのほうが大切なんだな。大事なことを教わった。ありがとう」
そして背中から板張りの地面に叩きつけられた。視界が暗くなり、意識が戻ったとき、黒田が自分の胴の上にまたがっているのを見た。
この位置関係は一般にマウント・ポジションと呼ばれている。