いわゆる“落ちた”状態にある葛西紀彦(かさい のりひこ)だったが、教官が少し触っただけで息を吹き返した。しかし焦点は定まらず、何度か目の前で手を振った橋本辰(はしもと たつ)はあきらめたようにとりあえずそこら辺に寝かしておけ、と土嚢の見物席に座る戦士たちを手招きした。そして、開始線でその姿を眺めていた黒田聡(くろだ さとし)の側の手を上げる。再び拍手喝采が起きたが黒田はそれに応えようともしない。
黒田は頭をゆらゆらと揺らしながら運ばれていく葛西を見送っていた。焦点がさだまらない。俺、ちょっと殴られすぎたかも。えーと、こういうときは頭を高くして寝てるといいんだっけ。次に試合があるものへの治療術の使用は認められていないから、決勝戦まであと30分程度の時間でなんとか回復しないと。ふらふらと自陣に戻った。先ほどまでは部隊のリーダーがいてくれたが彼女もどこかに行ってしまっている。今になってもセコンドなど必要とは思っていなかったが、必要ではなくてもこう疲れきって戻ってきた自陣が空だと少しだけ落ち込むのだった。さつきさんに無理やりお願いしてついてもらえばよかった――いや、あの人にそばでしゃべられたら吐くか――とりとめもない思考の中、とりあえず戻っては来たものの次に何をすればいいのかわからずぼんやりと立ち尽くしていた。
「黒田さん。気分が悪いなら寝た方がいい」
誰の声だろう? 発言者を特定するより前に、その相手が自分の疲労とダメージを気遣って声を低くしている配慮が伝わってきた。視線を向けるとそこには真壁啓一(まかべ けいいち)の姿があった。そしてずいぶんと低い位置には三峰えりか(みつみね えりか)も自分を見上げている。部隊も違うし一方は探索者ですらない彼らの気遣いが素直にうれしかった。そんな自分に弱気だな、と苦笑する。
あれ? 俺、真壁くんになにか言いたいことがあったんじゃないか? 不思議に思ったものの考えるのが億劫で、というよりも試合中のことを思い出そうとすると頭痛がするので思考を中断し、勧められるままに板張りの床に横になった。
「息苦しいですか? ご自分の名前はわかります? 今日が何日かは?」
技術者が見つめてくる。その真剣な顔に感謝してまじめに答えた。少しほっとしたようだった。吐き気はありますか? 少し、とうなずく。それよりも、試合中の記憶がまったくないんですけど。
三峰の顔が少しくもった。うーん、私も応急処置なんて知らないし。でもトイレまで歩かせるのは危険よね。ねえ真壁くん、ちょっと放送席当たりに吐くためのビニール袋とかないかな?
「そうですね、探してき――」
言葉は少し途切れ、探してきます、と言い直すと真壁は立ち上がった。なんだろう? と残された二人も視線を放送席に移し、そして同時に「あ」とつぶやいた。黒田は視線をすぐに天井に向けた。そこには特別に準決勝から解説と実況に加わった女戦士が二人いたのだが、解説の笠置町翠(かさぎまち みどり)が膝からかけていた毛布が床に落ちてしまっていたからだ。その結果、黒田は目をそらさなければならないような状態になっている。真壁もそれに気づいたのだろう。
見守るうちに真壁は放送席の翠に何か話しかけたようだった。そして、テーブルの上の模造紙を取り上げてサインペンで何か書く。それを彼女の座る前面に垂らした。模造紙には『特別解説』と大書してある。隣りに座る真城雪(ましろ ゆき)と同様、これで不心得者が正面からスカートの中を覗こうとしても模造紙に阻まれ落胆するはずだった。顔を真っ赤にして小さくなっている翠をそこにおいて、真壁がこちらに戻ってきた。
「いいとこあるのね、真壁くん。で、ビニール袋とかはなかったの?」
真壁はぽかんと口をあけた。ビニール袋? ビニール・・・
「もういっぺん探してきます!」
あの子ったら、と苦笑して視線を戻した三峰に黒田は先ほどよりしっかりした声で話しかけた。
「三峰さん。どうやら記憶障害は治ったみたいです」
「あら。よかったですね!」
「真壁のおかげかな」
怪訝な顔に続ける。
「この野郎真壁、って思ったら芋づる式に記憶がよみがえりました。感謝すべきなのかもしれないなあ。言いつけるのは勘弁してやるか」
三峰は要領を得ない顔で自分を見下ろしている。散々殴られた自分はいまひどい顔だろうに、この人はぜんぜんおびえないんだなとちらりと感心し、黒田は目を閉じた。しんどい試合だった。
しんどい試合だった。真壁のおかげでよみがえった記憶は自分が勝利に終わったというのにいまさらのように全身を恐怖で震わせた。衝撃の一つ一つが痛みすら伴って、まるでメリーゴーランドのように何度も蘇る。これじゃ休もうにも眠れやしない。
やっぱり言いつけることにしよう。