礼を終えて振り向いた黒田聡(くろだ さとし)の身体が揺れた。ああ、音ってのは空気の振動なのだなと実感させてくれるほどの拍手と喝采が自分と国村光(くにむら ひかる)に向けて降り注がれている。左肩の付け根はずきずきと痛んだけれど、自由になる右腕を軽く突き上げた。それがさらに声を大きくした。
ぐらりと上体がよろめき、左の肘をつかまれ支えられた。声にならない悲鳴をあげつつ、邪険に振り解くことだけはなんとかこらえる。支えてくれたのは好意と心配からだからだとわかるからだ。人の好意を、自分の都合でないがしろにしてはいけないとはこれまでの人生で学んだことである。
「ありがとう、若林さん」
仲間の罠解除師に微笑んだ。お疲れ、と笑う顔は上気しておりそのためかもう一度肘をゆすられた。鎖骨の下がもう一度痛み、歯を食いしばってこらえる。手を離してくれ、と言いたいのにとても言葉にできない。
「おい君!」
少し離れたところから厳しい声が若林を打った。先ほどまで対戦していた国村だった。
「黒田、きっと左腕の付け根が折れてるはずだ。支えるなら右肩にしてやってくれ。で、すぐにでも診療所に連れて行ってくれ。術をかけるにせよきちんと骨の位置をあわせないと同じようには治らないからな」
慌てて若林が手を離しすまなそうな表情になる。黒田はありがとうともう一度微笑んだ。そして国村に向かう。
「重症ですか、これ。そんな気がしてたんですけど」
上腕二頭筋と肩甲骨をつないでるところに亀裂が入ってるはずだ。触診してみないとわからないが、その部分が外れてしまっているということはないだろう。理想は診療所で寝かせたままレントゲンを撮って固定し、そのまま術をかけたいくらい重症なんだ。でもとにかくギプスで固めてから境内だろうな」
うわあ、とくらくらしたように黒田は天を仰いだ。好き放題やってくれましたね国村さん、と恨みを込めて呟く。
「俺だって大変だぞ」
よく見れば国村の額にはうっすらと脂汗が浮いていた。しかし痛みを感じさせない表情で左手のグローブの指先を噛み、手を引き抜いた。黒田の木剣は左手の薬指と中指の間に振り下ろされたらしい。指と指とがグロテスクに広がっていた。内出血をしているのだろうか? 見る間に赤黒く指が膨らんでいく。
「改めてみるとひどい有様だ。でもどう考えてもそっちが重症だから、お前のレントゲンとギプスが終わるまでこっちの治療は後回しだろう。手は人間にとって大事な部分だから怪我した場合も他の部位よりも痛いのはわかってくれよな」
とにかく境内よりも先に診療所だ、と訓練場の出口に向けて歩き出す。そのそばに商社の技術者がまとわりつき、国村に一言話しかけて走り出していった。
喝采はすでにやみ、興奮したようなざわめきがあたりを包んでいる。黒田は目を閉じて大きく息を吸い込んだ。
「嬉しそうだね」
目を開くと部隊のリーダーが自分を見上げていた。ええ、と見下ろして微笑む。それを見て高田まり子(たかだ まりこ)は意外そうな表情を浮かべた。
「試合に出る以上は勝ちたい、そのくらいはあるだろうと思ってたけど、ほんとに勝ちたかったの?」
お前はあんまり名誉とかにこだわらないと思ってたんだけどな、という言葉にもまた頷いた。俺も、途中まではそう思ってましたよ。でも――
高田も釣られて黒田の視線の向かう先を追った。模造紙を並べて作られたトーナメントの中央には、赤く太いマジックの文字が『黒田聡(色魔)』と書いてある。その注釈が意外で高田は吹き出した。黒田もひどいな、と呟きながら苦笑している。
「あの山、あのトーナメントの山はやっぱりとんでもないものでした。一歩登るのも大変で。俺、結構醒めててそんなにやりがいとか充実感とか感じない方ですけど、あれを登り切ったってのはなんだか感動したな」
にこにこと見上げてくる視線は弟か息子を見るような愛情に満ちており、なんだかむずがゆくなる。それにしてもと呟いた。
「これから診療所で、ギプスして次は境内って長いな。途中で気絶しそうです」
それは大丈夫、と魔女姫と呼ばれる娘は微笑んだ。
「診療所で治療術を受けられるようにしてあげるわよ。頼りになる前衛へのご褒美ってところね」