ありがとうございました、と下げられた頭に笠置町翠(かさぎまち みどり)は微笑んだ。昼ごろからすっかりお騒がせだった女子高生たちももう帰るという。ほっとするような、なんだか寂しいような複雑な気持ちだった。
もともと、試合後のこれからこそ彼女たちにきちんと指導してやる約束だった。しかし先ほどの激戦は真剣に見入った彼女たちにも疲労をもたらし、これから塾があるという幾人かにひきずられて今日は帰ろうという雰囲気になっていたのだ。それは翠にもよくわかった。翠自身にとってすら先ほどの試合は目を奪われ息苦しささえ感じるものだったのだ。まだまだ未熟で剣術の目もセンスも持たない彼女たちが追うには少しばかり過酷な空気だったというものだ。
「やっぱり答え、教えてもらえませんか?」
部長とおぼしき娘――友達からはかんなと呼ばれていた――が未練の残る表情でつぶやいた。決着の原因を尋ねた彼女に翠は正解をすべて与えることはなかったのだ。スピードの違いとだけ教え、しかし実際の動作の速度も行動の最適さも国村さんのほうがわずかに速いということは補足した。その二つが劣っても挽回できる要素がまだあるのだと、それは運動能力で結局は男にかなわない彼女たちにも重要なものだと教えた。自分で見つけるようにと。
「正解を知ってても納得できなければ意味のないことだからね。いろいろ考えて」
「お姉ちゃんとかに訊いてもいいですか?」
その問いには思わず苦笑がもれる。速さというものをつきつめて考えるような人間がこの娘の身近にいるとも思えない。うなずくと娘は笑顔を浮かべた。
「また来ていいですか?」
笑顔が凍りついた。こわばっていないことだけを必死に祈る。内面にある緋色の確信は、光り輝く世界の真っ只中にいるこの娘には見せてはならないものだと思えたから。
「いつでもおいで」
それまで傍らで黙ってたっていた真壁啓一(まかべ けいいち)だった。翠はその顔を見上げ、今の表情を彼女たちに見せずに済んだことに胸の中で感謝する。しかしそれだけだ。胸をついた思いは消えることはなかった。
アイスキュロスは――知ってる? アイスキュロス
女子高生たちは不得要領ながらもおたがいを見交わし、一人がおずおずと真壁の顔をのぞきこんだ。
「昔の詩人でしたっけ?」
真壁は正解、と微笑んだ。
「そう。古代ギリシアの悲劇詩人だ。アイスキュロスは生涯に八十二篇の詩を残したといわれるけれど、いろいろあって散逸して、まともな形で今に残っているのは七篇しかない」
この街にいる人間もそうだ、と続ける言葉に娘たちははっとした。武道に経験のある彼女たちは目の前で行われているものの水準を肌で感じただろう。その水準に達しなければならない環境の危険さも、同じくわかったに違いない。七十五篇の詩は消えてしまったのだ。そしてこの街での消滅は明日のことかもしれない。
そしてその恐れは、翠の内部にも残っていた。黒田も国村も、総合的に考えると自分より上の位置にいた。たどりつけないとすら思える位置にいた。
そして、その位置にいた人間がこれまでいなかったわけではないのだ。青あざに半面を覆われた顔を思い出す。彼はその場にいたし、もっと前にはさらにたくさんの人間がいただろう。その人たちは、いったいどこへ行ったのか? 全員が街を去ったのか?
「でも大丈夫、この女は残るほうだからさ」
自身も娘たちも疲労の極みに達した観戦だったがこの男はまったく影響を受けていないようだった。それは翠には納得できることだった。深く感じていないのではなく、こと激動においての情報処理能力が自分とは桁違いだと知っているから。十数年の鍛錬と模擬戦闘の末に身体に刻み込まれた数々の模範解答を検索することにより、自分は切り合いならばどんな局面でも瞬時に(自分に実現可能な)最適解を出す自信があった。それと同じものを単なる観察力と判断力と反射神経で実現しているこの男なら、疲れもせずに目の前の試合を受け入れられるのだと実感できた。かすかな羨望とともに。
女子高生たちは二度と自分を訪ねては来ないだろう。次に会える確証がないことを、真壁の言葉から理解したのだから。そしてベスト8にすら残っていなかったこの男の太鼓判を信じる理由は娘たちにはない。
でも自分にとっては違う。この男がそう言ってくれるなら、私は大丈夫なのかもしれない。私が見切れないものまで見ることができているこの男がそう言ってくれるならば。力づけられほっとして涙ぐみ、あわてて生あくびをした。
「ずいぶん偉そうねえ、真壁さん。私も一回戦で試合が終わったら御託並べる体力残ってたのかなあ」
女子高生たちが笑い、真壁も苦笑した。これでいい。小さくなった制服たちに大きく手を振った。