開始の声と同時に構えたのは、国村光(くにむら ひかる)の奇襲を恐れてのことだ。とはいっても開始と同時に切りかかるといった簡単な話ではない。こちらの気が満ちている状態でも間合いにいればすべての行動が奇襲になるのが目の前の男だった。
戦闘における速さには三つの要素があり、東京を出発して京都に到着することを考えるとわかりやすい。一つはもちろん、動作をする上での肉体の速度だ。東京⇒京都間でJRの線路上を進む場合に、のぞみを使うかこだまを使うか各駅停車を利用するかがこれにあたる。運動が必要とする純粋な速さであり、普段「動きの速さ」という場合はこれだろう。
二つ目は、東京と京都というスタートとゴールを同じくしても使用するコースによる所要時間の優位もまた速さと呼ばれる。自動車道を使うよりも整備された新幹線の線路を使う方が距離的に短くて済み、それよりも空中を飛んだほうがさらに短くなる。青くて巨大なネコ型ロボットが普及すれば、どこでもドアでゼロにまで短縮できるだろう。
この二つの速さにおいて黒田聡(くろだ さとし)は目の前の男に敵し得ないことを理解していた。とはいえ最適の動作を考え追求しないようでは第四層の前衛などは勤まりはしないのだから、二つ目については深刻な差はないと思っている。しかし一つ目のものに問題があった。
筋肉が生み出す純粋な筋力では劣っているとは思わないし、反射神経では自分の方が勝っているとすら思う。しかし目の前の男の動作は異常なのだ。誰だって動作開始はゆっくりで徐々に加速し終了前には速度をゆるめる。それがこの地上で行動する上での原則であるはずだ。もちろん国村の動きにもそれは見られた。見られたが、動作が遅い状態があまりにも短く、他の大多数の人間を見続けた結果動きはじめからトップスピードまである程度の猶予がある、と思い込んでいる彼の延髄と頭脳では対処ができなかった。
ずっと前の会話を思い出した。骨と骨をつないでいる筋肉のすべての筋組織をどうにかして同時に収縮/弛緩できないかと試している、と。意識したことのない微細な動きまで制御するなどおよそ人間に可能なこととも思えなかったし、今でもそれができるとは信じられない。しかし、目の前の男の動作速度がトップスピードになるまでの経緯はまるで紙芝居の画面展開のように急激であることもまた事実なのだ。
とにかく、常人(大げさな表現だが国村が相手となるとしっくりくる)に慣れすぎた黒田の身体は国村の動きを察してもそれまでの経験に引きずられ、一瞬の猶予があると思ってしまっていた。頭でどれだけ自分に言い聞かせてもそうなのだ。そしてそのぶんだけ対応のタイミングが遅れてしまう。その結果、目の前の男の行動はすべて奇襲になるのだった。向かい合っている限りは常に対処できる姿勢をとっておかなければとても安心はできないのだ。
しかし国村は動く様子もなく視線を自分に静かに注いできていた。
身体の左側を前に出すように半身になっている。左腕は少し曲げた状態で自分に向け上げており、小手調べの攻撃ならばすべて叩き落されることが理解できた。半身になった理由は木剣の長さを隠したいのかと思ったがそうではなく右腕は肘を上げて引かれ柄を握る手は顔の脇に添えられている。あごの高さから伸びる刀身が地面と水平にぴたりと自分の喉下に狙いを定めているその姿勢は、明らかに突きを狙っているとわかる。この奇妙な形の片手突きは、通常の青眼の姿勢から繰り出すものに比べて威力が足りないかと普通なら思うだろう。だがあいにく突きを放つ男の胴体はひねりだけで第三層の化け物を両断する衝撃を生み出すのだ。審判は殺傷力有りと認定するはずだったし、まともに食らったら気絶は免れないだろうと思われた。
二歩下がって距離を置き、木剣の長さをはかる。おそらく70cmほどにもなるそれは長身の戦士たちが練習で使っているものだ。その分重く扱いが難しいが、チャンバラではなく突きに賭けるのであればいい選択だろう。腕の長さとあわせた距離を頭に叩き込んだ。今はまだ安全圏にいる。
さて、どうするか。じっと腰に視線を置きながら考えた。切っ先が円を描く動きであれば避けるも受けるもそらすもできないことはないが、弾丸と化して一直線に向かってくるものをいなすのは難しい。先ほどの試合で他の戦士たちが飛んでくる木刀に対処できたのも5m以上の距離が開いていたからであり、一足一刀の空間でなら身体全てでかわすしかなかった。
横移動は無理だ。可能性を簡単に切り捨てる。その後の反撃をするには右か左かにステップして空振りさせることが一番だったが、常に動作が奇襲になるこの男の突きにそんなことができるとは思えないし、試すのも恐ろしい。であれば後ろか、と心を決めた。幸い突きなので射程距離には限界があるのだ。刀身がぎりぎり届かないところまで下がって伸びきった木剣をはじくか、できれば掴むかして無効化し一気に踏み込む。それしかなさそうだった。
国村が息を吐き出した瞬間、黒田をつつむ時間の流れがゆったりになった。それによって黒田は目の前の男が攻撃を開始したことを悟った。
かるく半歩踏み出し、腰をひねる。先ほどから腰に視線を置いていたためその動きははっきり見て取ることができた。しかし身体はまだ猶予があると思い込んでいるのか動こうとしてくれない。
腰のひねる力、それがまるで背骨の一つ一つの回転で勢いを増幅するかのように胸と腕に向かって伝わってきた。ようやく黒田の下半身に力が入った。二歩ぶん。それだけ跳べば切っ先は黒田の前10センチ残して止まり、きっと掴むことができる。
国村の回転の動きがとうとう胸と肩に伝わった。ゆったりと流れる世界で切っ先だけが奇妙に速くこちらに伸びてきた。黒田の足が地を蹴った。
着地した。切っ先は自分に向かってくる。覚えた腕の長さと刀身の長さを反芻して届かないと確信する。木剣を掴み取ろうと左腕を上げようとした。
胸椎の上部に強い衝撃が走って上体が吹き飛ばされた。何がぶつかってきた!? 混乱しながらもとにかく立っていられないことは理解し、それならばと思い切り身体をそり返す。ブリッジの姿勢になって両手を床につけた。木剣と床に挟まれた右手の指が悲鳴をあげた。それにはかまわず(かまう余裕もなく)国村が踏み込んでこれないように思い切り足を蹴り上げる。両足を揃えたまま一瞬の倒立、それから両腕をまげて跳躍した。
一瞬だけ国村と目があった。その目は足の動きに戸惑っていたがさらに畳み掛ける意思は痛いほど伝えてくる。
着地。耳が足音を拾う。その方向に思い切り木剣を振り回した。足音が止まった。
頭にフィギュアスケートの回転を思い浮かべながら、さらに二回回転した。その都度国村のいる方向に木剣を振りながら、はたから見ればカッターの刃を生やしたコマにでも見えたかもしれない。
三度目の回転を終えて国村から逃れるように再度の跳躍をする。さすがにその動きは予測できなかったようで国村は見送るだけだった。ようやく息をつくと、胸が痛んで何度も咳き込んだ。手袋に吐き出されたツバは見ないようにする。もしもそこに血が混じっていたりしたら一気に戦意喪失しそうだったからだ。それほどの激痛であり、衝撃だった。
「国村さん」
意識して平静を装い、尋ねる。なんだ? と国村は首をかしげた。
「その剣、ボタンを押すと伸びたりするんですか」
国村は苦笑し、うなずいた。
「ああ。あとはボタンを押すと爆発したり刀身だけ発射されたり」
「すごいな」
「スキーリフトでいつもきれいな女の子と一緒になる体質になったりする。でも押しすぎると上からタライが落ちてきたり便所掃除当番になったりするから気をつけろ」
「それはまた何か、えらくストレートですね。まさに諸刃の剣か」
「ああ。でも、今日はどんどん押させてもらう」
タライがこわくないんですか! そう言って笑い、黒田は息を整えた。
ボタンで伸びたり便所掃除になったりするはずはない。あの木剣は友人の南沢浩太(みなみさわ こうた)が常に練習で使うもので、見覚えがあった。タネは剣にはない。国村の身体にある。あそこに詰まった運動能力にあるのだ。自分の常識では想像できないものがある。
頭で理解してもすくなくともこの試合中では対応できないようなものがそこにある。暗い気持ちになった。こころなしか頭痛が復活したような気がした。