真壁啓一(まかべ けいいち)が大きく息を吐き出してようやく、縁川かんな(よりかわ かんな)は自分の身を縛る何かが消えたことに気づいた。それまで行われたのはたったの一動作だった。国村という男が突き、黒田という男はそれをバク転でかわすという。それだけなのに肩には力が入りすぎて首が痛くなっていた。
「すごいな、黒田さんは」
真壁の言葉に笠置町翠(かさぎまち みどり)――先ほど素振りを見てもらったばかりか、今は隣りで観戦させてもらっている!――は頷いた。それでも、何がすごいのかはわからずに二人の顔を見る。彼女の目には、黒田という男がかわしたにせよ、主導権は国村が握っているように見えるからだ。もちろんバク転はすごい。すごいがその前の突きだって腰のひねりだけとは思えない切れ味だったと思う。
視線に気づいたか、真壁がちらりと翠を見た。翠は軽くあごを引いてみせた。恋人もその許しなく発言はできないのだろうか。さすが、強くてきれいな女の人だ、となぜだか自分が得意になる。
「突きはかわしにくいけど、崩せば相手はがら空きになる。だからはじくなりそらすなり、自分が横に動くなりでなるべく間合いは保ったまま対応したいと思うんだよ」
そういうものだろうか? 確かに日本剣道でも高校から突きは許可されているが、女子の世界では使用するものはほとんどなかった。首にあざでもついたらどうするのか! とみんな思うのかもしれないが、ともあれ突きに対する方法を真剣に考えたことはなかった。とはいえ、言われればそんなものかなという気もする。
「でも、黒田さんは国村さんの構えを見た瞬間そんな欲は捨てた。最初から下がろうと思ってないとあの突きはかわせないよ。俺だったら欲目を捨てられるかなあ」
真壁さんだったら、と翠が口を挟む。
「欲を捨てたってあの突きはかわせないよ。あれに対応できる反射神経を持ってるのって、この大会に出てるレベルのひとじゃ黒田さんか内田さんくらいじゃないの? あ、あとは鈴木さんか」
「翠さんでもだめですか?」
驚きのために声が高くなったが、翠はこともなげにうなずいた。
「黒田さんは私に勝ってあそこにいるんだよ」
それでも目の前の女性に対する思いは信仰に近い。むきになって反論しようとしたが苦笑されて口をつぐんだ。
「まあ、そこの兄ちゃんほどに無様にはならないだろうけどね」
憎たらしい物言いに思わず苦笑する。真壁はしかし、この程度の憎まれ口は慣れっこなのかただ笑っているだけだった。
「まあ反射神経もそうだけど黒田さんが今回すごいのは決断の早さだよ。とにかくかわすならかわす、でけれんも遊びも入れるつもりがないみたいだ。誰かさんとの試合では遊びまくってたけど、さすがに葛西さんや国村さん相手ではそんな余裕はないんだろうなあ」
先ほど息を詰めて見つめたのだ。『遊びまくられた誰かさん』が誰を示しているのか痛いほどわかった。いや、うっすらと笑みを浮かべて試合場を見つめている女性の隣りにいることはもう物理的に痛みをもたらしてくるような気すらした。憧れの女性は静かにあー、と呟いた。思わず距離を置いてしまう。怖い。
「あたし今ケンカ売られてる。買わなきゃ」
平然とした声がそれに答えた。
「まあそりゃあとまわしだ。二人が動くぞ」
その一言で剣呑な空気が溶けてなくなる。えーと、この二人の上下関係って一体・・・。おとなって難しい。
視線を移した試合場では、相変わらず切っ先を黒田に据えた国村が横移動のすり足を開始していた。