すでに三度の突きを放っており、勝負はまだついていない。黒田聡(くろだ さとし)はさきほどの突きの射程距離に怖れをなしたのか大きく跳び退ってかわすだけで反撃まではできないようだった。そうでなければ困る、と国村光(くにむら ひかる)は焦りをかすかに感じていた。三度の突きのうち一度でも自分が納得のいかなかったものはない。姿勢を全く揺らすことのない横移動のすり足からまたたきほどの遅滞なく直角に踏み込み、腰のひねりだけの突きを放つ――横移動から縦移動の急激な切り替えは国村の身体にも負担を強いるほど人間には難しい動作なのだ。やすやすとかわされてたまるものか。
待たれている。不気味な直感があった。
試合場の中央に位置し、常に自分に正面を見せる黒田はいつしか木剣を頭の上に構えていた。突きに対する防御の動きは前後の跳躍だけに任せ、一瞬でもこちらの突きが甘かったらその木剣を振り下ろして片をつけようというのだろう。自分に近い運動能力と信じられないほどの反射神経を持ちながら、動きの勝負を挑むではなく持久戦を選んだその決断が不気味に感じられた。
動きの精確さでは自信があったから、心身を削りあうこの状況に不安を感じているのではない。それよりも目の前の男が先ほどみせた判断力に恐怖を感じているのだ。目の前の男は、自分の突きの構えを見た時点で反撃をあきらめて後ろに下がることにした。そして、その判断のおかげで試合は続いている。その研ぎ澄まされた感覚でいま持久戦を選ぶのならば、自分が自覚していない不利があるのではないのか? 自分の目にはうつらない何か。
それでも、とゆったりと緩急をつけてすり足で進みながら隙をうかがう。いや、隙などないから少しでもましな瞬間をうかがう。それでも、自分は細心の注意と最大限の勇気で踏み込んでいくしかないのだった。自分の背後に剣道着にコートを羽織った娘たちが来た時点でまた踏み込み木剣を走らせ、しかし切っ先は届かなかった。このときばかりは心中で苦笑する。名うての女たらしも試合中は煩悩を断ち切るのか、娘たちがまだ幼いといっていいい年齢だからかはわからないが小細工は効果がないようだ。
だが、と別の意味で胸のうちに浮かんだ笑いは、ほくそえむ、というものが近かった。
先ほどの跳躍は、これまでのような全力のものではなかった。ほんとうにわずかだけ余力を残したものだった。
間合いを測り始めている。
黒田にも持久戦に不安が出てきたのか、もともと待ちの姿勢でいるつもりがなかったのかは知らない。しかしいま敵手は自分の突きの射程距離を測り始めていた。狙いがわかった気がした。
それならば、と次からはこちらも少しずつ跳躍と肩甲骨を伸ばす距離を短くしてやろう。黒田の狙いはこちらの突きをぎりぎりでかわせるまでに跳躍を抑え、なんとか反撃することだ。であればこちらで意識して距離を短くしてやればそれを信じ込むだろう。人間はとかく、信じたいものを信じる生き物だからだ。
間合いをつかみ反撃をしようと思った瞬間、抑えたものを再び出し切ってやる。反撃のため前に向かおうとする黒田の身体にとってそれは痛恨のカウンターになることだろう。しかしその計算も表情には出さない。
次の突きは、少しだけすり足の距離を抑えた。
黒田の跳躍もまた、少し短かった。
黒田の瞳がちかりときらめいたが、突ききった腰を戻し左腕を前に構える動きのため国村は気づかなかった。