14:50

「やっと着いた…・…」
思わず出てしまった安堵の声は少し大きすぎただろうか。すれ違った家族連れのお母さんがくすりと笑う気配が届いてきた。赤面する。
笠置町翠(かさぎまち みどり)がいるのは東京都世田谷区の一角にある馬事公苑である。JRA日本中央競馬会)が人と馬との交流のために開放している施設で、体験乗馬などを行っている。そういうイベントがなくても緑と花にあふれた開放的な空間は先ほどの家族連れのように散歩の客を集めていた。
大変な道のりだった、とこれまでを振り返る。
部隊の仲間である真壁啓一(まかべ けいいち)を京都駅で捕まえ、新幹線の車中で東京の交通機関についてみっちりと教わってきたつもりだった。馬事公苑には渋谷駅からバスに乗ればいいとてホテルのある日比谷から渋谷までの道筋を、本屋で買ったポケット地図にあった地下鉄路線図で何度もトレースした。
ふかふかのベッドで目覚めたのが今朝の八時。めったにしないお化粧と、妹に見繕ってもらった一張羅のスカートをはいてホテルを出たのが10時半だった。12時には馬事公苑に着くだろうと思っていた。
その後、有楽町駅に向かおうとして「反対側に」歩き出し、日比谷公園を通過した時にどうしておかしいと思えなかったのか。「何かヘンだ」と直感したのは国会議事堂を目の前に見た瞬間だった。うわあ教科書とおんなじだーと感動しながら時計を見たら11時。
「永田町から地下鉄に乗ったら一本で渋谷に出られますよ」
道ゆくサラリーマンに丁重に頭を下げたが、そのときに「半蔵門線に」乗るのだときちんと確認しておくべきだったろう。永田町という地下鉄入り口を発見して喜んで改札を通り、電車に腰掛けて一息ついたら、迷宮内部でもついぞ味わったことのない緊張と不安にことんと眠りに落ちた。長年の訓練で、眠りながら外部に気を配る特殊能力を彼女は持っている。おさおさ、寝過ごすことはない…・…。
「池袋」という音で目が覚めたのは、トヨタの展示場が池袋にあるので在京中に一度訪問したいと思っていたからだ。なんで池袋に? ともはや恐怖まで感じながらも電車を飛び降りた。真壁あたりが聞けば「それって有楽町線の永田町では?」と瞬時に気づくだろうが、木曾の山奥で暮らし、長野の短大まで自動車で通学していた身としてはまさか同じ駅名が二つ以上の線にまたがっているとは、知ってはいても、自分の身にそんな不幸が襲い掛かるとは思わなかったのだ。
山手線の名前はいくらなんでもわかる。そうしてようやく渋谷にたどり着き、駅員からバス停の場所を聞いてここにいたる、という経緯だった。
足早に苑内を進んでいった。目の前に「立ち入り禁止」の看板があっても構わず進んでいく。さっきの狼狽とは別の理由で、どんどんと動悸が激しくなっていった。そして彼を見つけた。
引き締まった身体を泥と藁で汚れたツナギで包んでいる。両手には馬のための道具だろうか、木製の、おおきなふるいのようなものをいくつも抱えていた。
呼びかけようとする一瞬はやく、目の前の男の名前が呼ばれた。女性の声だった。
孝樹、と親しく名を呼び捨てにする女性に、男性――水上孝樹(みなかみ たかき)が笑顔を返す。翠はその場で立ち尽くしていた。呼びかけた女性(翠より二〜三才年長だろうか、小柄でふっくらとしたやさしげな笑顔)が挨拶代わりに水上に体当たりをした。そして自分の持っている木桶を彼の荷物の上に乗せた。
笑いながら苦情を言おうとした水上の視線が翠を捉えた。一瞬驚き、満面の笑顔が生まれる。
荷物を抱えながら駆け寄ってくる姿をぼんやりと眺めながら、自分に向けられたものと彼女に向けられたものと、二つの笑顔を比べていた。自分に向けられた笑顔には幼馴染に出会えた懐かしみと喜びが満ちていた。とても温かい笑顔、しかし、たった一つ何よりもほしいものはそこには見られなかった。彼女には向けていたのに。
翠ちゃんか! 久しぶりだなあ! いつ来たんだよ!
声が遠くに響く。