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目がくらむ。
高田まり子は迷宮街に初めてやってきた頃を思い返していた。京都市街に発生した大迷宮に関する探索/防衛の一切を委任する組織として迷宮探索事業団が設立されたとき、彼女は特筆すべき点もないOLとして日々を暮らしていた。実直で落ち着ける恋人と、不満も感じない職場に支えられた暮らしは幸せといっていいものだったろう。
新聞に出た第一期探索者募集の記事、一度は意識もせずに読み飛ばした地方新聞のそれを、数日後になってどうして掘り返したのかは考えてもわからない。ただ、一見幸せで安寧な日常を過ごしながらそれをよしとしない自分が確かにいたのだ。
恋人は反対し、去っていった。必ず死ぬわけじゃない、自分を試してみたいんだ、信じて待っていてほしい――必死の言葉は彼の目を見て尻すぼみに消えていった。幸せと安寧を投げ打つ決断をした恋人に対して、穏やかで誠実を絵に描いたような彼が浮かべた表情、それは異世界のものを見るときの違和感そして嫌悪感だった。彼女は唐突に悟った。この人が愛しているのは私ではなく、けして道を踏み外さず、黙って笑ってそばにいる女だったのだ、と。そして何より、自分はそうなってしまうことを恐れて迷宮街に惹かれているのだ、と。ようやく敵の顔を見つけた。そんな気分だった。
もう迷いはなかった。会社を辞め、ジョギング、体操、ヨガ、ありとあらゆる身体能力を高めるための努力を始めた。そうして第一期募集があと一週間で終わるというある日、彼女は探索者としてのパスを手に入れた。
(なんでこんなことを思い出すんだろう)
サウナの中にいるように汗を流しながら、集中のし過ぎで朦朧としている頭で考える。
(そうだ。魔法使いの適性検査でこんな感覚になったんだった)
素質がなかったのではない。まったくその逆だった。試験官である女性の示すようにイメージを頭に描いたその瞬間、周辺の空間すべてを巻き込んだ魔法の発動が始まったのだ。第一の試験は空間にわずかに熱を持たせるもの。しかし彼女がひとたび心を整えた瞬間、彼女を中心とした空気が爆発した。突然の高熱に膨張した空気が四方に吹き付けられたのだった。それは、至近距離にいた三人が火傷を負ったほどの熱量だった。熱風を生み出しながら、彼女は自分がもっと大きなものの一部になったことを実感していた。問題なのは、一体化した大きなものを御するには彼女の心はまだ弱く、一度自分が入れたスイッチを止める手段も知らないまま温度を上昇させていることだ。
発熱は唐突に途絶えた。試験官が緊急措置としてすべての魔法技術を封じたのだった。おかげで彼女のあとにいた五人はその日のテストを続けることはできなかったのだが、その五人からも苦情は生まれなかった。そうしなければ大事に至っていたと、感覚で知っていたのだ。
「合格にはできないわね」
顔をかばうために差し上げた手のひら、そこにびっしりとできた水ぶくれにため息をつきながら試験官が高田を見た。大きなものとの一体感の喪失を悲しく思いながら、こんなことをしてしまっては仕方がないだろう、と半ば納得していた高田に彼女は驚くべきことを言った。あなたには事業団の費用で特別な訓練を受けてもらいます、と。いわば特待生に選ばれたのだった。
(そうだ、あの時の感覚と同じだ)
より大きな何かの一部となって全身を力に満たしている感覚だった。ただ違うのは、彼女を捕らえているものは暴走しているエーテルではなく、目の前で涼しい顔をして両手のひらをはためかせている女性だということだ。かつて彼女が暴走させたエーテルの波はなんの抑止もなく純粋に発散を続けていくだけだったが、今回は目の前の女性がすべて支配していた。高田はただ、その威圧感の求めるままに空間のエーテルを集め、練り、彼女――事業団の理事、笠置町茜(かさぎまち あかね)の元に届けている。
そんな作業が始まって三時間。20人いた術師たち――いずれも第一期からいる熟練の探索者ぞろいだった――の半ば以上が力尽き、地面に座り込んでいる。そろそろ自分も限界か、とあらかじめ教えられていたギブアップのサインを送ろうとしたとき、彼女を強いて縛り付けていた力が消失した。できた! と嬉しそうな声がする。
なお立ち上がっていた七人、そのうちの二人がまた座り込んだ。同じく座り込みたかったところだったが好奇心からよろよろと歩を進める。茜の隣りに並んでその向く方向を見ると、そこには一人の男が立っていた。明るい茶色のスーツを身につけた黒人だった。どこかで見覚えのある彼は、自分たちが意識に入らないようにじっとうつむいている。
「これは?」
訓練場で魔法使いの指導をしている鹿島詩穂(かしま しほ)が理事に尋ねた。さすがに彼女は疲労を浮かべてはいてもしっかりしているようだ。
「論より証拠――星野くん、ちょっと彼の前に立って。みんなは彼らから20メートルは離れるように」
場が整った。全員の視線が二人に注がれる。
「構え――始め!」
「え! 何が!? ひええ!」
星野幸樹(ほしの こうき)の悲鳴には苦痛が混じっていた。茜の声と同時に黒人が動き出したのだった。星野を攻撃するように。緊張感のみなぎった星野の頬から一筋の血が流れていた。
「ご覧のように、初心者用の戦闘相手よ。自衛隊の面々が迷宮の空気に慣れるように作りました。彼はこのエーテルを高密度で凝縮したものだから、彼の存在に慣れればエーテルの変調を察知する能力も鍛えられるわ。彼の武器はハンディとして待ち針なのでまず殺されることはないけど、動きは速いからしとめるのも難しいわよ」
視線の向こうでは星野が困惑しているようだった。黒人の動きは非人間的に速く、星野を取り巻くように高速度で走り回るかと思いきや、隙をみつけては襲い掛かっている。きちんと防御しているから待ち針ごときで傷つくこともないが、決定打も与えられないようだった。
「なるほど」
高田の部隊の前衛である黒田聡(くろだ さとし)が感心したようにつぶやいた。
「あの速度で動かれたら一瞬で動きを読まないと当てられない。これは俺たちにも十分いい訓練になるでしょうね」
しばらくは誰もしゃべらずに打ち合う星野と黒人を眺めていた。星野もさすがは迷宮街屈指の剣士でありその動きにも反応し始めている。黒人が振り向きざまに伸ばしてきた右腕をつかみ、地面にたたきつける。動きにふさわしく軽い身体は床に叩きつけられ跳ね上がった。せやっ! という声とともに星野の鉄剣がその胴をつらぬき、床に縫い付けた。黒人はしばらくじたばたとしていたかと思うとその動きを止めた。
「あ、あれ!」
死体はそこにある。しかしその場にはもう一体の黒人が立っていた。先ほどと同じようにうつむいている。
「一度に動けるのは一体だけ、でも何度でも復活するわ。安心して訓練に使って――」
満足そうな理事の声を、まだ若い女の子が無遠慮にかき消した。
「それはいいんだけど、似てるよね」
「でしょう? エディって呼んであげて」
「お母さん昔から好きだったよねー、エディ=マーフィー。偶然似ちゃったのかな?」
「まさか!」
小太りの女性は心外そうに娘――笠置町葵(かさぎまち あおい)を見つめた。
「ここまで似せるのに一時間かかったんだからね!」
高田はくらくらした。その一時間、最後の一時間でもっとも自分は疲労し、現在床にへたり込んでいる面々がダウンしたのもその時間帯のことだ。それをただ映画俳優に(しかも、一見して自分が思い出さなかったようにもはや過去の人になりつつある)似せるためのものだったとは。
親子はにこやかな笑顔のまま見つめあった。血が通っているだけあり、母はいまは太っていたが、よく似た面差しだった。決定的に違うのは、母はこころから微笑んでいるのに娘の笑顔は形だけのものだということだ。
「お母さん、その迷惑っぷりはもはやラスボスだよ。倒したら最終回になりそうだ」
そしてへたり込んでいる面々を振り返った。
「ここで力を合わせてこの魔王を倒しましょう。みんなの力を一つにすれば! あいて!」
「おまえは親に向かってなんて口をきく」
濃いあごひげを蓄え、日本刀を携えた男性が葵の頭をこづいた。そのやり取りに疲労困憊している面々からも笑いがこぼれた。全員わかっていた。星野があれほど苦労する訓練相手が第一層にいることがどれだけ自分たちの戦力を底上げし、死の危険を軽減してくれるのか。高田にも十分わかっていた。彼女が思ったのは、どうせならモーガン=フリーマンにしてもらえたらよかったのに、ということだけだ。
エディ=マーフィーに笑われながら翻弄されたらさぞかし腹に据えかねることだろう!