下川由美

 19:42

気をつけてね、と伝えて下川由美は受話器を置いた。昨日帰ってきたかと思った恋人は今日の昼番が終わった後また新幹線で京都に向かい、到着したとの連絡だった。今日は夜番なので昨日の夜恋人が職場に顔を出したときにちょっと話しただけである。その声がえ…

 23:02

北酒場の一隅、長方形の卓が並ぶ個所で目当ての二人を見つけた。部隊の仲間の戦士である真壁啓一(まかべ けいいち)はすぐに自分に気づいたらしく、ジョッキを持つ手を上げた。その隣りでは姉の翠がぐったりと突っ伏している。笠置町葵(かさぎまち あおい…

 22:57

『あいよう、真壁です』 「翠です」 『うん、どうした?』 「明日ヒマ?」 『お寺めぐり』 「USJのチケットがあるんだけど」 『あ、行きたいな』 「孝樹兄ちゃんにもらったの。由美さんが来れなくなったからって」 『・・・』 「真壁さんと行って来いって…

 22:37

『もしもし孝樹?』 「おう、もう京都に着いたか?」 『それなんだけどさ、実家の用事ができちゃってそっちに行けなくなっちゃったよ』 「あら。なんか大変なこと?」 『ううん、父上が娘と一緒にいたいっていじけてるだけ』 「いやそりゃ大変なことだろ。嫁…

 14:42

苦い顔で受話器を置いた恋人に熱いお茶を淹れなおしてやる。ありがとう、という憮然とした顔に共通の上司である中本勝(なかもと まさる)がどうした? と声をかけた。お勤めのほうか? 水上孝樹(みなかみ たかき)はうなずいた。お勤めとは、彼の家柄に下…

 19:21

エレベーターに乗ると人は階数表示を眺めてしまう――そんな言葉を以前テレビの中から聞いたことがある。最近では『エレベーターに乗ると階数表示を見てしまう人が多い』という法則もまた有名になり、あえて他を、前方か、足元か、携帯(これは多い!)か、あ…

 11:24

どうして子どもたちになつかれるのだろう? とは笠置町葵(かさぎまち あおい)の積年の疑問だった。子どもの相手がうまいわけでもなく笑顔がいいわけでもなく、それでも近所や親類の子どもたちにはよくなつかれた。今日も正月とて集まってきていた子どもた…

 12:30

「はい翠です」 『真壁です』 「うん、どうしたの?」 『いまどこにいる?』 「伊勢丹。孝樹にいちゃんと」 『お、おお! ということは?』 「下川さんと」 『なんだ、二人きりかと期待したけど――ってことは、水上さんも夕飯一緒に?』 「ううん、京野菜食べ…

天気は良く、めぐり合わせが悪い一日。 訓練場で青柳さんをドライブに誘ったら、午後からお経を上げにいくとか。お坊さんの世界でも常連客がいて、名指しで指名されると断れないのだそうだ。翠でも来ないかなとぼんやり待っていると、姉妹でおめかしで出かけ…

 14:50

「やっと着いた…・…」 思わず出てしまった安堵の声は少し大きすぎただろうか。すれ違った家族連れのお母さんがくすりと笑う気配が届いてきた。赤面する。 笠置町翠(かさぎまち みどり)がいるのは東京都世田谷区の一角にある馬事公苑である。JRA(日本中央競…