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今年から開始したハウス栽培の苺はどうにか売り物になってくれそうだった。これで来期にはもっと作付けを増やせるだろう。
竹で編んだ籠に農具をつめ、満足しつつ家に戻った笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)を見知った顔が出迎えた。おお、と笑顔を浮かべる。
「おや! うちのは出かけてますか、榊原さん。待たせてしまいましたね」
入っていて下さればよかったのに、と恐縮する隆盛に笑顔で応えた男は50代前半で、隆盛より少し年長になる。名を榊原美樹(さかきばら よしき)といい、迷宮街からの収穫品を買い上げている商社の担当者だった。迷宮探索事業団の設立段階から、組織運営の実務という面で大変世話になっている。何しろ理事とはいっても代表格の隆盛の本職は農業だし、他には習字教室の教師や小説家、大工や民宿の親父などがいる。誰をとっても一万人のビジネスマンを皆殺しにできる戦闘能力を持っている面々だったが、一万人集まったところで企業の経営などできっこない種類の面々でもあるのだ。さらに悪いことに、日本各地に分散された『人類の剣』たちからめぼしい者を集めて編成されたこの理事団の大半は「面倒事はごめんだが、自分をまじえないで大きな決定がなされるのはプライドが許さない」という厄介な動機で理事に加わったものであって、実際に活動をしてきたのは彼と彼の妻である笠置町茜(かさぎまち あかね)、宮島で民宿を経営している奥島幸一(おくしま こういち)しかいないのが現状だった。残りのいわば『名誉理事』たちが名誉だけではなく金銭も要求してきたら不愉快に感じるところである。
そんな中での迷宮探索事業団の立案、現実化、第一期探索者募集期間という激動の時期を事務的に支えてくれたのが榊原だった。理事と出入りの業者という表面上の関係よりはるかに強いものを隆盛は彼に抱いている。
「今日は担当換えのご挨拶でして」
出されたお茶をおいしそうにすすったあと、茶飲み話の雰囲気のまま榊原は伝えた。二杯目を注ごうと急須を持ち上げた動きがぴたりと止まった。
「失礼ながらまだ定年のお年ではありませんよね」
転勤です、とにこにこと頷く。温和で笑顔は絶やさない男だったが、それが変わらないところを見ると彼の希望に添うものなのだろうか。彼が告げた新部署は彼の勤める商社のグループ企業である旅行会社、広島支店の部長代理という。窓際ですよと笑った。奥島さんの所に入り浸るのでしょうなあ、と。
「それでよろしいのですか?」
釈然としない思いであごひげをしごく。榊原の笑顔はあくまで左遷を意に介していないようだった。私がやることはやりました、あとは後任の人間の仕事です、なんといっても利益を出せなかった前任者が栄転じゃこれからの彼がやりにくい、と。そして後任の人間について話し出した。
彼も会ったことのない、しかし評判は聞いたことのある若手の営業マンだという。最初に名前を聞いたのは、彼が教育にあたった新入社員が噂話をした時だ。彼の同期にとんでもなく怖い顔の男がいる、と。
「不細工でも怒っているわけでもなく、話してみるととてもいい奴なんだけど、どことなく怖いんですよって言ってましたよ。いい話じゃありませんか。そんな感想を抱かせるには心か身体か血統か、どれかに常識はずれのものがなきゃいけません。顔が極端に優れてたり劣ってたりする人間は、それだけのことをできるものです」
だから五年後に彼の懇意にしている取締役の口からその名前が出たときにはそれほどに驚かなかった。
「万年筆を買わせたらしいんですよ」記憶を探る表情はあくまで楽しそうだ。
「その取締役が自分の使っている万年筆をなくしてしまったんです。一口に万年筆と言っても形は様々ですから何でもいい、高ければいいというわけにもいきません。私が使っているのはパーカーの普及品ですが、散々選んで結局これに落ち着きました。私にとっては五万円の高級品よりもこちらの方がいいわけで」胸ポケットに刺さっている万年筆を抜いてみせる。
「だからエレベーターに乗り合わせた営業マンにちょっと買ってきてくれ、とメーカーと種類を依頼したそうです。ところが部屋に戻ったとき、そのメーカーが既に潰れていることを思い出した」
「おや」
「少し調べればメーカーが潰れていることはわかるでしょう。当然彼はそのことを知らせるはずだ、その時にまた指示をすればいい、とその場は忘れた翌日、その営業マンは山ほどの万年筆を持って現れたそうです。取締役の使っていたものと、使い心地が似ているものだけが選別されて、それでも国内外のメーカーですから五〇種類以上になります。そして、ご指示の物は既に販売されていませんので使い心地のよいものをこの中から選んでください、と。これは試供品として借りたものですので時間をかけて選んでいただいて結構です、と」
二杯目の湯飲みに口をつけてすすった。
「取締役は二つ質問しました。各メーカーの数多い種類の万年筆から、使い心地の似た万年筆をどうやってリストアップできたのか。そしてこの大量の試供品をどういう口実で用意させたのか」
「確かにおかしいですね」
「一つ目の質問の答えは、知人にリストアップしてくれと頼んだというものでした。部長が彼に頼んだのがお昼休みの終わり、エレベーターで乗り合わせた時らしいです。もう残っていないものと似た使い心地の万年筆を現在流通しているものからリストアップできるとは、どんな種類の才能でしょうね? おそらく万年筆の使い心地にかけては日本でトップクラスの知識を持っているのではないでしょうか。そんな人間とコネをもち、さらに一日かけずにそれだけの作業をしてくれるだけ深い人脈を持っているということですな。
二つ目の質問の答えは顧客を集めたセミナーをするときのノベルティとして使うから、選ばれれば52本買い上げると話した、というものでした。当然取締役は詰問します。彼が一番安いものを選んだとしても5,000円はするでしょうから25万円以上かかることになります。平均的な価格のものを選んだら70万円を超えます」
「それだけを儲ける自信があると」
「営業でありながら儲けに恬淡としている、いい話じゃありませんか」
「でもどうして52本という半端な数なのですか?」
顧客がそれだけということだろうか? しかし、素人の隆盛ですらどうせなら大量に用意して新規開拓に使うべきではないかと想像したのだ。
「その年に子供が高校あるいは大学に入学する社員がそれだけだったそうです。取締役にこう言ったわけです。別に自分がノベルティとして使っても、投資分の儲けを出す自信がある。しかし、もし取締役が自分のポケットマネーで社員の子供たちにプレゼントする気があったらそのリストと一緒に売るにやぶさかではありませんよ、と。取締役はその場で買ったそうです。当然話の流れでそれを届ける役目は彼がすることになりました」
「…・…しかしそれでは公私混同の気がしますな」
「公私混同どころか! あざとい人気取りですよ。でも効果的です。効果的であっても外聞が気になる種類のことをしれっとしてできる面の皮の厚さは、しばしば実際の脳みその働きよりも重要です」
そして真剣な表情になった。皺の深い顔の中、瞳がきらめいている。
「これから迷宮街はもっと大事な局面になる。あの穴倉はうちの会社の利益だけの問題ではありません。いま京都で行われているのは、世界史的に見て大きな意味のあることです。そういう中で、目先の利益にとらわれず馬力を持って進むにはよく見える目と尽きぬ気力と、何より怪物じみたエネルギーが必要になるんです。私は老いすぎた。老いた人間は余生を考えて性急になってしまうし、苦痛に弱くなってしまうものですから不適格です。困っていたところで私は最適の後継者を見つけたかもしれんのです」
隆盛はため息をついた。目の前の男は後任の男を買っているらしいが、後任が榊原と同じだけの誠意を持つとは当然限らないし、なにより自分はこれからその怪物じみたエネルギーをもつ男と対面することになるのだ。それは地味に暮らしてきた農夫には望ましい未来とは思えなかった。