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彼を目の前にして逃げ出した弱さを憎んだから、二日後、彼の仲間たちが武器防具の修繕を頼みにきたとき、小林桂(こばやし かつら)はこちらから声をかけた。西野太一(にしの たいち)――あの晩紹介された年長の男――は複雑な表情を見せて言った。「なんだかショックだったらしくて、地上に戻ってすぐにモルグに寝に行ってしまいましたよ」。
そうですか、という落ち込みに同情してくれたのだろうか、西野はお茶を誘ってくれ、申し出に甘えることにした。元気でやっているのか知りたかったからだ。彼と同じ部隊で、彼と同年輩の少女も同席するようだった。かわいらしい子だった。この子は彼のいい友達になってくれているのだろうか?
「ま、あいつも寂しがってるから落ち着いたら話してやってくださいよ」
何でもないことのようにさらりと言う。「でも、どうも何か誤解があるみたいですからね。よければ聞きますが」
小林は深く息をついた。すべて聞いてもらうつもりだった。彼の身近にいる大人たちに自分が何をしたのか知ってもらいたかった。それによって、彼になにかよいことをしてくれるかもしれないと期待したからだ。

大学を出てすぐ母校にあたる中学校に配属されたのは非常に珍しいケースだった。教師はどこでも競争率が高かったから、卒業してすぐの自分が採用されるとは思わなかったのだ。授業に強烈な熱意をもってあたったのはそれだからだし、彼女の朗読する枕草子を聞かずに落書きばかりしている今泉博(いまいずみ ひろし)をなんとかしようと思ったのもそのためだった。
注意しようとして彼の落書きを見たときのことは今でも覚えている。形だけにしても叱れた自分をよくやったと思っているからだ。彼女には、彼が絵の才能を備えていることがよくわかった。それは彼女が心から望み、ついに自分にはないのだとあきらめたものだった。そのためにこうして二番目の夢だった古典の教師になっているのだから。しゅんとしている少年に、絵を描くのが好きなのかと尋ねた。彼はかわいらしい顔に意外の思いを浮かべながらもしっかりとうなずいた。
美術の教師は放課後の労働など死んでもごめんというタイプだったから、新設の美術部顧問は彼女が引き受けることになった。美大受験のために学んだ技術すべてを少年はどんどんと吸収していった。授業中に落書きをすることもなくなった。そのためかどうかわからなかったが成績も目に見えて上がった。
少年が三年生になった春、二人は当然のように、進路をある公立校にしようと決定した。偏差値こそ彼の成績からすれば低かったものの、そこには大阪の美大で教鞭をとっていた老教授が隠退していたからだ。新しい師は少年に世界と視点と技術と、なによりコネクションを与えてくれるはずだった。
しかし、少年の両親は絵で生活などできるものではないと信じ込んでいた。地元の企業は優秀で土地に根付いた人間を欲しがっていた。進路担当は一人でも多くの生徒を進学校に送り込もうとしていた。そして彼女は地方で最も偏差値が高い公立校を薦めた。
その高校に進学した少年が学校をやめ家出したと知らされたのは去年のことだった。そして彼女は逃げるようにこの街にやってきた。
「なんか食い違ってるね」
こんな季節にも関わらずのチョコレートパフェを口に含みながら少女がつぶやいた。
「小林さん、今泉くんにはまるでサリバン先生のように慕われてますよ」
小林は即座に否定した。私はあの子を裏切ったんだから、と。そんな資格はないのだ。
「小林さんはそう思ってても奴自身はどうだか。――どうだ?」
愕然として背後を振り向く。彼女が席についたとき、かがみこむようにして本を読んでいたはずの人物が身をねじって彼女を見つめていた。
「先生、裏切られたなんて思ってないですよ、俺」
中学校のころから、彼は紙袋が必要なくらいチョコをもらっていた。それを――学内でのチョコのやりとりは禁止されていたのだが――自分の弟を誇る気持ちで眺めていたあの日を思い出した。少年には整った顔立ちに加えて品のよさがあった。それはこの街にいて日々を危険にさらしてもまったく失われていない。
「先生、父に頼んでくれたでしょ? どうしてもあの学校に行くとしても、美術部を続けることは許してやってほしいって。あのあとお父さんに言われたんです。あの先生があれほど熱心になるなら、お前は絵を選んでもいいのかもしれないな、って。そっちの学校に行くかって。西高に行ったのは俺が自分で決めたことです。自分が本当に絵でやっていけるのか自信が持てなかったし、――先生が、やる気さえあれば学校にクラブだって作れるってこと、コンクールに応募までできるんだってことを教えてくれたから。あの学校をやめたのは――いじめられたからです」
口元を手で抑えた。だめだ、と思った。だめだ、泣く。生徒に涙を見せてはいけない。
「今、大検の受験料を貯めてます。美大用の専門学校にも通ってます。大検をとったら今度は美大の学費を貯めます。何年たっても美大に行ってみせます。やらないのは状況が許さないのじゃなく、やる気がないんだって、昔先生に言われたから」
視界がぼやけた。